歌うことが小さい頃から好きだった。美空ひばりから童謡から軍歌まで、母と一緒に歌うのが楽しかった。
小学2年のとき、先生がいない教室で突然友達がお腹が痛いと泣きだした。学級委員だった私は、先生を探しに、その友達並びにおつきの女の子3・4人を連れて学校中を探し回った。渡り廊下でばったり出会った先生に、どうして教室で待たなかったのかと、ひどく叱られた。正義感と責任感に駆られてやったことなのに。ちょっと悲しかった。 その夜、夕飯の後でいつものように母と歌を歌った。学校のことは何でも話していたのに、「お腹いた事件」はなぜか打ち明ける気になれず、でも、その日の連絡帳にこんな文を書いた。 「おかあさんと歌を歌った。たのしかった。学校であったいやなことをすうっとわすれていくようだった。」 後日、授業参観後の保護者面談で、先生に「いいお母様ですね」と褒められた母は、何のことか全然わからず、きょとんとしてしまったという。 高学年になると、母ではなく3歳上の兄の影響が増え、フォークソング(うう、懐かしい響き)を聴くようになった。6年生のとき好きだった男の子に「グレープ」を紹介されて以来、私の嗜好はフォークソング・ニューミュージック路線で固まった。 新しいLP(ああ、時代を感じる)を買ってくると、父が大切にしているプレイヤーにそっと乗せてダイヤモンドの針を落とす。ソファに座り、歌詞カードを1字ずつ追いながらメロディーに耳を傾ける。全部聴き終わると、「お気に入り」を選び、その曲を意識しながら2回目のリスニング。3回目には、歌詞とメロディーが頭の中で一体化してきて、口ずさめるようになる。 だから、いまだに私は音楽を聴くだけだと歌詞を覚えることができないし、音楽を聴くのに「ながら」はありえない。歌詞を知らない曲は、歌詞カードを見ながらでないと聴いた気になれない。 社会人になると、貴重な週末、歌詞カードと首っ引きで音楽だけに3時間も4時間も費やすヒマはない。不器用な聴き方のせいで、新しいCD(おお、ようやく出た)を買わなくなり、必然的に「ながら」でも問題ないほどきちんと歌詞を暗記している音楽ばかり聴くようになった。 おかげで今や、春夏秋冬・喜怒哀楽、その時の気分に合った歌をレパートリーから選び出すのは得意だ。母の伴唱はないものの、古いCDと一緒に歌うと、怒・哀モードのときも気分が落ち着いてくる。 自転車通勤の頃は、朝まだ人通りの少ない桜田通りを、その日のテーマソングをハミング(というより熱唱?)しながらペダルをこいだものだ。たまに明治学院付属高校生徒に振りかえられたりしたけれど。 そういえば母も、買い物帰りなどに歌ってしまうそうだ。「この前、誰もいないからつい声が大きくなっちゃって、後ろから追い抜いた中学生に変な顔されちゃった」と笑っていた。そのとき口ずさんでいたのは「オッペケペー節」だったという。 ▲
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| 2010-06-25 13:48
| 機嫌よく一人暮らし
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7年ぶりに地球に帰還した「はやぶさ」のことが報道された。地球の大気圏内に突入する直前に「はやぶさ」のカメラがとらえた、ちょっとぼやけた地球の映像を見て、TVのアナウンサーが、「ほらあ、涙で曇っているじゃないですか」と言っていた。無人探査機も、7年の長きにわたってお務めを果たすと、もう立派な英雄人である。
それにしても、計画より3年遅れというのはすごい。それでもちゃんと地球に帰ってきたからすごい。アナウンサーじゃないけど、「はやぶさ」君は、「還る場所は地球だ」と信念を持って宇宙を漂っていたとしか思えない。 しかも、正確に言えば、地球に無事帰還したのではなく、大気圏突入のときに燃え尽きてしまったのだ。ちゃんと着陸したわけではなく、その忘れ形見のカプセルを放り出して、自分は大気の藻屑と散った。それでも、たとえ燃え尽きるとしても、誰も知らない冷たい宇宙の果てではなく、地球の上で燃え尽きたかったのではないか。せめて、その閃光を地球上の誰かが確認できるような場所で。 1957年にライカという雌犬を乗せたスプートニク2号も、地球の大気圏に突入するときに消滅したという。彼女は、自分がふたたび生きて地球に帰ってこられないことなど知っていたはずはない。 狭い空間に押し込められて、大きな爆音とともに重力を感じなくなって、ふわふわと浮いた。そして(彼女にとっては)ある日突然(正確には162日目に)あっという間に光になった。円錐型の宇宙船の丸い窓から首をかしげて真っ暗な宇宙を見ながら、ライカはさぞかし地球に帰りたかっただろう。犬のことだから、きっと還る場所はその匂いでちゃんとわかっていただろう。 1年半前に癌で亡くなった父は、最後の1ヶ月半を病院で過ごした。大きな手術をした後、ずっと小康状態を保って自宅で普通に生活していたのに、ちょっと調子が悪くなってタクシーで病院に行ったら、その場で入院。だから、まさか再び自分が自分の足で我が家に帰ることがないなんて、父は想像もしていなかっただろう。 亡くなる当日の朝、私と母と兄夫婦が揃って見守る中、父は突然大きな声を上げ始めた。最初は何を言っているのかよくわからなかったのだが、それは「かえりたい!かえりたい!」という必死の訴えだった。 たとえもうあと少しで燃え尽きるとも、最期は自分が建てたうちに、自分のお気に入りの本に囲まれた煙草くさい部屋のベッドに還りたい。父の、最期のはっきりとした言葉だった。 お通夜の日、母と兄が父に付き添っている斎場から一人自宅に戻った私がベッドに入ったとき、天井にぼんやりと白い光が浮かんでいた。あれは父の最期の帰還だったと、私は今でも信じている。 ▲
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| 2010-06-14 21:41
| 私は私・徒然なるまま
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昔、ノーベル賞を受賞した元首相が亡くなったときに「国葬」が執り行われた。まだ小さかった私は、TVでそのニュースを見ていたく感動した。そして両親に向かって重々しく宣言した。「私も死んだら『国葬』してもらう」
なんというばかばかしく大それたことを言う子かしら、と呆れ返った、と母は今でも言っている。でも私は、総理大臣になりたいとか、ノーベル平和賞をもらいたいとか(ノーベル賞とるには、普天間と北方領土問題解決はもちろん、及び自衛隊インド洋派遣復活・波動砲付戦艦大和随行、くらいやらないといけないだろう)、そんな僭越なことを志向したわけでは、決してない。単にケタ違いにたくさんの人がお葬式に来てくれる、というのが羨ましかったのだ。1,000万人くらいの人が自分の死を悼んでくれるなんて、人間冥利に尽きるではないか。 その後、もう少し人生経験を重ねて年頃になると、私の人生観は大きく変化する。大学2年の夏休み、同学年女子10数名で伊豆の大学寮に海水浴に行った。訪れた学生達が思い思いに青春の1頁を綴る「旅先日誌」。黄色い声を上げながら、皆であれこれ書きこんだ中のピカいちは、私の一言、「今は100人の友達より、1人の恋人が欲しい」 きゃあああ、じゃあ、あたし達って必要ないのお? あったりまえじゃない。友達は、学食でランチして、週に1回くらい飲みに行って、それでおわり。1日24時間、ずっと私のことを想ってくれる恋人が1人いれば十分よ。ピュアに異性を信じていた、Illusionな日々。もしも本当にそんな人がいたら、お葬式のときだけちらっと自分のことを思い出してくれる人が1,000万人いるより、ずっと濃いだろう。 そして今。ケッコン願望のある友達が、その理由として「全面的に頼れる人が欲しいから」と述べたのに対して、「アナタ男性を『全面的に』頼れるなんて、本当にそう思う?」「…それもそうだわね」 女性→男性に限らず、男性→女性だって女友達同士だって、全て全面的に何でも頼れる他人なんて、いるわけがない。いや、もちろんいるかもしれないが、基本的にはいないと思ったほうが精神衛生上明らかによろしい。一緒に趣味を楽しむ。仕事の悩みを打ち明け合う。他人とはTPOを使い分けておつきあいするのが、お互い良好な関係を築く秘訣である。 これからの人生は、やっぱり100人の友達(「1人の恋人」も、別に、いてくれてもいいけど)。死んだら、仕事のお義理の葬列者とかではなく、ワリカンでご飯食べてバカ話して、ある時は悩みを分かち合った友達が、参列してくれればいい。 「だから、私はあなた達より絶対早く死ぬからね」と断言したら、大学時代の同級生男子一同、「オマエが一番長生きするに決まってるじゃないか」と一笑に付された。 ▲
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| 2010-06-08 19:19
| 機嫌よく一人暮らし
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入社2年目というのは微妙な年頃である。1年目は右も左もわからず、とにかく上司や先輩の言うことを細大漏らさず聞いて見よう見まね。それでもわけがわからなくなって、あせった新人が課長に向かって「先生!!」と叫び、周りの失笑を買う。よくある光景だった。
けれども2年目になると、自分の目前だけでなく、半径5mくらい周りが見えてくる。神業に見えていたチューターの一挙手一投足が、自分の射程距離に入る気がしてくる。格段に情報(消化)量が増えたことが嬉しくて、つい知ったかぶりをしたくなり、天の声だと思っていた上司の指示に疑問を持ち始める。 私もご他聞に漏れず、入社時は「なんて話のわかる人なんだろう」と思っていた配属先の課長について、2年目には「ちがうんじゃないの?」と思うことがまま起こるようになった。それが度重なって「うちの上司は使えない」なんて生意気な不満が頭に渦巻くようになる。 ある日、業を煮やした私は、カウンターパートにあたる部署のM室長に対して、いかに課長が使えないかを延々と訴えた。M室長は、役員の戦略スタッフ的役割を担う重鎮であるにも関わらず、偉ぶったところが全くなく、彼が怒ったところを見た人は誰もいないというような方。だから私もつい甘えて、上司の文句を打ち明けてしまったのだと思う。 大きな黒ぶち眼鏡の奥にある優しげな瞳で、いつものようににこにこ微笑みながら私の長話を聞いていた室長は、私の話が一区切りすると、いつものように穏やかな声で一言尋ねた。 「で、What can I do for you?」 …このストレートな6 wordsのインパクトは今でも忘れられない。この一言で、彼は社会人2年生の私に対して1時間の説教、いやそれ以上に相当する教訓を示唆してくれたのだ。 自分が直面している問題を単に問題として口にするだけでは、井戸端会議のおばさん達と大差ない。問題提起といえば聞こえがいいが、平たく言えば「文句」もしくは「愚痴」を垂れ流しているに過ぎない。いやしくも「仕事」をする人間は、問題を見つけたらその解決案を考えるべき。他人に話をするのは、解決策を考える際のアドバイスをもらいたいとき、あるいは考えた解決案の評定をしてもらうか、実行にあたっての協力要請をするとき。問題提起は、その解決案とパッケージでなければ単なる時間の無駄である。 問題を抱える自分の大変さを理解してもらいたいとか、落ち込んだ自分を慰めてもらいたいとかいう感情は、うちに帰って恋人か友達に暴露すればよい。 その後、M室長は米国子会社に赴任なさった。娘さんの病気治療の医師がその地にいるため、M氏の上司の計らいで赴任期間を延長していたと人づてに聞いたが、そろそろ彼も定年を迎える頃だろう。 ▲
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| 2010-05-09 20:39
| 忘れられない言葉
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その彼とは、大学の授業が一緒だった。ひとつ年上で学科も違っていたが、こじんまりした講義だったので互いの顔と名前はすぐ一致した。勉強熱心でない私と違って、彼は端正な顔にいかにも「勉強好き」な雰囲気を漂わせていた。学食でランチを一緒に食べたことも授業以外でプライベートな話をしたこともない。だから、私が卒業して就職した直後、1年前に大学院に進学していた彼から連絡があったときは、結構驚いた。
「来る者は拒まず」タイプの私は、彼が指定するまま渋谷駅で待ち合わせをした。「お久しぶりです」といいながら向かった先は東急ハンズ近くの「五右衛門」というスパゲッティー専門店。「いかと明太子」「おろし納豆」といった和風から定番まで、豊富に並んだメニューを物珍しげに上から読み始めた。ところが、彼は「ここは、『じゃこと青唐辛子の醤油味』がおいしいんだよ。」と言ったかと思うと、「すみません、じゃこと青唐辛子のスパゲッティーふたつ。」え、どうしてアナタが私の分まで注文するの?と目をしばたたかせる。しかし相手は一応先輩である。二人で会うのは今日が初めてである。とりあえずおとなしくしよう。 心持ち口数を減らした私の前に、「じゃこと青唐辛子」が運ばれてくる。醤油の香ばしい香り。目の前にあるパルメザンチーズの器に手を伸ばす。私は乳製品全般が大好きだった。と、彼の眼鏡がきらりと光る。「このスパゲッティーにはチーズはかけないんだ。このままで味わってみなさい」 …宮中晩餐会じゃないんだから、醤油味にチーズかけたっていいじゃん、醤油バターラーメンっちゅうもんを知らんのか!?と言いそうになるのを、再び「まあ最初だし」という(この時点で徐々に説得性を欠き始めている)セリフを心の中で繰り返し、黙ってフォークを動かす。 それでも沈黙が苦手な私は、質問する。「お勉強は忙しいですか?」 今度の眼鏡のきらめきは、さっきと違い心なしか冷たい。「勉強じゃないよ。」 勘のいい私は即座に反応する。「あ、『研究』ですね。大学院生ですものね。」「そう。」彼は満足げにうなづく。 そして藪から棒に講義が始まる。「君はね、まだ手の入ってない1本の若葉の木みたいなものなんだよ。あちこち枝を張り始めているけど、どの枝を伸ばしていくか、まだわかっていない。もっと洗練されていくべきなんだ」 一種芸術的なこの台詞も、20代前半の私にとっては、自己否定されたようで屈辱的だった。週1回同じ教室にいただけで、私の何を知っているというのか。「…そうですか。」せめて口調が尖りませんように、と最後の情けを込めて発言し、そそくさとスパゲッティーの残りを口に押し込んだ。 先日、久しぶりに彼の噂を聞いた。なんとか大学教授の彼はまだ独身で、友人の仲介で開催した合コンの席上、北方領土問題だかアフガニスタン問題についてずっと語っていたらしい。3人の女性は2次会に来なかったそうだ。 ▲
by miltlumi
| 2010-04-29 11:45
| 慣れてない男たち
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私は、9歳まで世の中の「お父さん」は皆禿げていると思っていた。父はもちろん、父方・母方の祖父から伯父・叔父に到るまで全員揃いも揃って禿げ(すみません、この言葉、放送禁止用語じゃないですよね)だったせいだ。小学校3年の6月、父の日にちなんで図画工作の時間に描かれたお父さんの絵が黒板にずらーっと並んだ。それを目にした時の驚き。ちびまる子ちゃんの額に縦じまがざざっと降りる時の感じと似ていた。
固定観念というものは恐ろしい。それまでだって「禿げじゃないお父さん」を目にしていたはずだ。確かに仲良しのなごみちゃんのお父さんは薄かったが、父の上司の神崎さんのおじちゃんはふさふさしていた。でも、そこに勝手なロジック(私より年上の子供がいるお父さんは本当の「お父さん」じゃないとか)を組み立てて、「お父さんは禿げ」という固定観念を粘土遊びの怪獣のようにどっしりと作り上げていたのだ。「クラス全員のお父さん達」という、「父が通うF社社宅に住むお父さん達」に比べればはるかにランダムなクラスターのサンプルの頭髪を見て、初めて私は自分が固定観念に縛られていたことに気付いた。 これも社宅に住んでいたがゆえの固定観念だが、ものすごい大きなうちに住むお金持ちはTVや小説が作り出したフィクションで、普通は平屋に住んでいるものだと勝手に信じていた。広さも間取りも全く同様の、社宅という戦後日本の資本主義的社会主義の権化のようなシステムはもとより、G社に勤めるりえちゃんち(持ち家)だってますみちゃんち(借家)だってみな6畳間2つが襖で仕切られた程度の平屋だった。5年生のとき、建築技師という非サラリーマンを父に持つ恵里子ちゃんのうちに行って、初めてこの固定観念が打ち砕かれた。お父さんが設計した邸宅は、スイスにあるような急こう配の三角屋根の2階建てで、なんとリビングルーム(お茶の間ではない)が吹き抜けになっていた。ほほお、こういう金持ちは実在するんだ。建築技師になろう、と決心したのはそのときだった。蛇足だが、このような安直で不純な動機に基づいた職業観が色あせるのは早い。小学校の卒業文集に書いた「将来の夢」は「弁護士」だった。 子供は、世間のしがらみがない分自由奔放な発想をする、というのが世の中のそれこそ固定観念だが、引っ込み思案(?)でごく狭い世界に閉じこもっていた私は、無邪気な固定観念をたくさん持っていた。幸い、そうした思い込みは、バーテンダーがアイスピックでがしがしと氷を砕くように、どんどん小さくなっていった。そして氷が砕ける瞬間の爽快さ=固定観念と気付いた時の解放感が、もしかすると、こんな些細な出来事を思い出すためのパスワードになっているのかもしれない。 ちなみに、能天気な固定観念の記憶のおかげで、私は今でも頭髪の薄い男性に対するアレルギーがない。 ▲
by miltlumi
| 2010-04-27 19:50
| 私は私・徒然なるまま
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一人旅が好きだ。
社会人になってから、思い立つと有給休暇をとってどこかに出かけた。といっても2泊3日程度のささやかなもの。旅の友に欠かせないのが日記帳。あの頃、都会に置き去りに出来ない悩みを抱えて、詩仙堂の庭先や竜頭の滝の辺で1・2時間も物思いに耽っては、日記帳にその途中経過をこりこりと書きつけていた。名所旧跡は、人生の選択肢を考えるためのオープンエアの座禅堂みたいなものだった。一つ一つ答えを出そうと必死だった。 27歳のときの一人旅だった。人っ子ひとりいない湖の畔の草の上にごろりと横になり、初秋の真っ青な空を見上げながら小鳥の声に耳を傾けた時。考えるべき悩みがないのに気付いた。 あのときの、まるで胸の真ん中にすこーんと洞穴が開いてしまったことを自分の姿を鏡に映して初めて知ったような、唖然とした戸惑いの感覚を今でもよく憶えている。その直前に結婚を決め、もしかすると最後の一人旅になるかもしれなかった。もう少し年をとってからの結婚なら、住宅ローンとかお互いの両親との折り合いとか子供をいつ作るとかいう現実的な悩みはもとより、本当にこの人でよかったのだろうか、という重圧が結婚式の当日まで続いたことだろう。あの頃は若かった。これでいいのだ、このすこーんとした感じこそが「幸せ」というものなんだ、と思った。やっぱり旅行は2人の方が楽しいにちがいない。 2人でたくさん旅行をした挙句、また一人旅をする機会に恵まれた(?)。マウイ島には日記帳の代わりにPCを持っていったが、プールサイドは日差しが強すぎてVAIOの液晶画面がほとんど使い物にならなかった。地中海のマルタ島では、史跡巡りのつもりで手ぶらで出かけた先々でふいに書きたくなり、「地球の歩き方」の「現地最新情報・投稿用紙」に米粒のような字を並べまくった。 そのあと、またしばらく一人旅の機会を失うことになる。自分なら決して選択しないであろうアジアの島のバケーション。ホテルから程近い、午睡にまどろんでいるようなパサールの鄙びたカフェ。風はない。生ぬるいスプライトをすすりながら、ふと初秋の湖畔を思い出した。 あのときのように何も考えていない。でも悩むべきことは厳然と存在する。その根源を真横に置いたまま、私は、自分があの頃のように必死に答えを見つけようとしていないことに気付いた。考えても悩んでも、自分では解決できない問題というのが人生にはある。考えても仕方ないから、悩み事は、そっとそのまま椰子の木の下のデッキチェアに乗せて、ぼんやりと眺めているしかない。 凪のような時間だわ、と思って足を組み替えた時、悩みの元が口を開いた。 「遠くに行っていたね。」 来月私は、いよいよ正真正銘の手ぶらでハワイ島に行く。 ▲
by miltlumi
| 2010-04-25 19:15
| 私は私・徒然なるまま
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ジェントルマンの定義をご存知ですか?
「ジェントルマンとは、なにをしてもジェントルマンである男を言う。」 (塩野七生著「男たちへ」) 「ジェントルマンの定義をすべて満たすような男はジェントルマンではない。」 (中野香織著「スーツの神話」より。出典不詳だそうです。。。) 平民の私は、本物のジェントルマンに出会ったことはない(出会ったとしてもそれがホンモノかどうか判断できる能力がない)。でも、本場イギリスはさておき、とある時期にアメリカで出会った二つの経験。 その1。離婚ほやほやのとき。心の傷を癒すため(?)一人でマウイ島に旅行した。プールサイドはアメリカ人のカップルや家族連れでいっぱいだった。季節はずれだったせいか、オアフ島でなかったせいか、日本人はほとんど見なかった。だから日本人の女性(しかもヒマワリ柄のでっかい浮き輪にしがみついて一人で泳いでいる)はちょっと目立ったかもしれない。 プールと読書に飽きると、ホテル内の土産物屋さんをつぶさに見学する。自分用に、竹の模様を透かし彫りしたキャンドルスタンドを買い求めた時、店番の男性が聞いた。 「Are you traveling alone?」 「Yes. I’ve just divorced.」 にこやかに答えられた自分に、ちょっと感心してしまった。「これなら大丈夫だ」と思った。そして彼もさらりと続けた。 「Oh, I’m sorry. My wife died three years ago. You know, this is life.」 その2。旧姓に戻ったことを社内に知らせた翌日、NYに出張した。同じグループ会社のいつものメンバーに加え、プロジェクトを共同推進する他社の新しいメンバーもいる会議に出席した。「初めてのメンバーもいるから、自己紹介しよう」という呼びかけで、円卓の順に所属と名前を言っていく。私の番になった。 「Effective from yesterday, I’m back to my maiden name, XXXX.」 会議に出席している日本人は私一人。離婚が日常茶飯のアメリカ人達の間で一瞬空気が凍った。そして2秒後、グループ会社のAlというひげもじゃの巨漢が立ちあがり、私に向かって大きな手を差し出した。 「Congratulations!」 救われたような表情の皆がそれに唱和したとなると、私も思わず右手の親指を立てて笑顔で応えてしまった。会議が終わって二人きりになった時、今度は真剣な表情で、Alが私に尋ねた。 「Are you OK?」 アメリカ流ジェントルマンの定義。他人の状況や気持ちを慮って、当意即妙にパーソナルな言葉をかけることのできる男性。 ▲
by miltlumi
| 2010-04-18 10:26
| マンモス系の生態
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「箸置きも置かずに夕飯をかきこむ生活にもう疲れちゃったのよ。」
あるエッセイの中の言葉。筆者より年上の先輩サラリーウーマンが突然会社を辞めることにしたときにぽろりとこぼした台詞だった気がする。この言葉に出会って以来、日常生活のふとした瞬間にふと思い浮かんでくる。 生まれて初めて箸置きを買ったのは大学3年の秋、友人と訪れた金沢の忍者寺の近く。お土産屋さんの軒先に並んだ野菜形がかわいらしく、茄子、人参、大根、と選んでいるうちに9個になった。当時はまかないつきの下宿生活だったから、実際にその箸置きを使うことはなかった。 就職して一人暮らしを始めたとき、最初に買い揃えたキッチングッズのひとつがランチョンマット。真っ赤な、お醤油がこぼれてもしみにならないビニール製のマットが、野菜たちの最初の檜舞台となった。 結婚して、自分以外の人間と毎晩のように夕飯をともにするようになると、野菜の箸置きだけでなく、旅先で二人で選んだものや親戚からのもらいものもラインナップに加わった。季節やその日の献立に応じて箸置きを選ぶのが、ささやかな楽しみだった日々。 離婚して一人暮らしに戻ったとき、財産分与の結果箸置きのラインナップも半減した。それさえ自分だけのために並べるのが億劫で、仕事の忙しさを口実に登場機会が減って行った。何カ月も替えていないランチョンマットの上に、かすかな良心の呵責をチクリと感じながら、カラリとじかに箸を置くようになっていた頃。ふとあの言葉を思い出した。ああ、そうだ。粗雑な生活を送っていると心まで粗雑になる。丁寧に生活しよう。久しぶりに訪れた京都で、桜模様の清水焼の箸置きを買ったのはそれから間もなくだった。 ところが、ここ数年本当に仕事が忙しくなり、箸置きどころか、料理もろくにできず、夜中にありあわせの野菜で作ったお雑炊をすする毎日。またもやあの言葉が頭をかすめる。まさに食事をかき込むような生活はいやだ。そう思いながらも、そうせざるをえない自分。忙しく仕事をこなしながらも、きちんと生活できる有能な女性はいるだろう。けれど、残念ながら私はそれほど器用ではない。ついに会社を辞めた。 今、マイペースで仕事をしながら、友人との約束がない夜はあれこれと料理を作り、引き出しに整然と並んだ箸置きコレクションから一つをとりだす。気が向くと友人を食事に招く。丁寧に盛り付けたサラダを見た友人は、「赤ピーマン、こんなにきれいに薄く切ったりできないわ」と賛嘆してくれた。「ヒマだからね」と笑う私に、彼女は「私だったらどんなにヒマでもこんなことしない」 私にとっての「箸置き」は、人生のプライオリティーの問題なのかもしれない。 ▲
by miltlumi
| 2010-04-09 00:04
| 機嫌よく一人暮らし
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大学の専門課程で師事したH教授は、学部No.2の地位ながらがつがつしたところは皆無で、ロマンスグレイ、温かく包みこむような穏やかな視線、決して語気を荒げることのない紳士だった。勉学不熱心だった私が、卒論の指導教授をH教授にお願いしたのは、真っ当かつ安直な選択だろう。
なんとなく興味のある領域に関してたまたま読んだ本をそのままテーマに選ぶという、これまた安直なアプローチの中で、唯一真面目に考えたのが本の執筆者へのインタビュー。サラリーマンという枠を超えて「ライフワーク」と呼ぶに相応しいプロジェクトに取り組んだ私企業の一社員である執筆者は、既に第一線を退いておられたが、どうにかその方の自宅の住所と電話番号を突き止め、平日の夜にいきなり電話をかけた。いかにも年配で頑固な感じの声。氏名、大学名と卒論のテーマを説明し、一度会って話を聞かせてほしいとお願いすると、案外すんなりと承諾してくださった。 ところが、訪問日の前々日の夜、いきなり電話が鳴った。「一日待っていたのに何の連絡もせずにすっぽかすとは何事か。」怒気を抑えた、震えるような声。彼は訪問日時を取り違えて勝手に待ちぼうけをくらっておられたのだ。平身低頭謝りながらもその間違いを控えめに正し、改めて訪問したい意向を伝えたが、一度へそを曲げてしまった年寄りの機嫌は最後まで直らず、そのまま電話を切らざるを得なかった。 このインタビューがなかったら、卒論は公の文献だけのつまらないものになってしまう。さすがの私も困り果て、H教授のオフィスの扉をたたいた。静かな表情で一部始終を聞いていたH教授は、私が涙ながらに語り終えると、冷静におっしゃった。見知らぬ人に電話でアポイントをとったときは、必ず確認の手紙(当時はまだEメールなど普及していなかった)を出すべきであると。そしておっしゃった。「念のため、彼の電話番号を教えてもらえますか?」 数日後、H教授に呼び出された私は、「X日X時に会ってくださるそうですから。」という言葉を、信じられない気持で受け取った。H教授は、自らアポイントを取り直してくださったのだ。 インタビューは成功だった。水羊羹の箱詰めを手に一軒家のドアを開けると、やせぎずで気難しそうな初老の男性が待ち受けていた。最初は緊張したが、話を聞くうちに次々と質問が口をつき、活字にならなかった彼のプロジェクトへの思いをずっしりと受け止めて帰路に着いた。 興奮冷めやらぬまま、翌日みたびH教授の部屋を訪ねた私は、「今回のことで、社会の厳しさを痛感しました。」と殊勝らしい態度を表した。いつもの穏やかな笑顔でゆったりとしたバリトンの声で発せられたH教授の言葉。 「社会が厳しいのではなく、あなたが甘いのですよ」 それから15年余り後のH教授の退官祝賀パーティの席上、立派な社会人となったかつての教え子達がH教授の思い出を3分で語るコーナーで、私の懺悔は最も「受けた」話の一つだったが、当のH教授は「全く憶えてないなあ。」ととぼけておられた。 ▲
by miltlumi
| 2010-04-02 23:10
| 忘れられない言葉
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