<   2015年 02月 ( 10 )   > この月の画像一覧

ある日の夜食

 夕方6時過ぎという中途半端な時間に、鰻おこわとチーズと柿の種わさび風味というみょうちきりんな組み合わせの夕飯(?)を食べ、夜8時からのライブに行った。ライブハウスで、オニオンリングとジャンバラヤとアボカドエビディップという、頼りあるようなないようなメニューをつまみ、11時過ぎの電車に乗った。

 駅のホームのベンチ。なんとなくおなかが空いてるかなあ、と思いつつ文庫本を広げる。くしゃり、とレジ袋の音がした。隣に座っている20代前半と思しき男性が、菓子パンと紙パックジュースを取り出したところだった。桃とぶどうの模様、どうやらミックスフルーツジュース。何の菓子パンかはわからない。
 次発電車表示板を見るふりをして、近視用眼鏡をかける。顔は表示板に向け、目玉だけ動かして彼の口元を見ると、薄ベージュのクリーム。カスタードクリームかチーズクリームかはわからないが、パンがイングリッシュマフィンのような平たいタイプであることを確認し、おそらくチーズだ、と踏む。鞄に半分つっこまれたレジ袋のとなりに、マクドナルドの茶色い紙袋も見える。
  「あなた、最近のマクドナルド、買う勇気あったんですか」
 思わず声をかけそうになった。前日、次の予定までの時間潰しに軽食のとれる店に入ろうとして、駅前広場から見えるマクドナルドかすきやかドトールか迷って、最初にリストから脱落したのがマクドナルドだったのだ。でも、そんな個人的な事情をつゆにも知らない彼に、真夜中近くの人気の少ないホームでいきなり声をかけるのは失礼だと気づき、思い留まった。もしマクドナルド社の社員だったりしたら厄介なことになるし。
 チーズパンのあとに出てくるのはダブルチーズハンバーガーかフィレオフィッシュか、はたまたアップルパイか、すごく気になったけれど、電車が来てしまったのでやむなく席を立った。降車駅で一番エスカレーターに近い車両は、もっと後ろのほうなのだ。

 改札から地上に出る長い上りエスカレーターで手袋やイヤーマッフルの装備を着用していたら、下りエスカレーターのほうでアイスクリームバーをかじっている20代前半と思しき男性とすれちがった。あれはゼッタイに「明治アーモンドチョコレートアイスバー」にちがいない。下のほうからエスカレーターがだんだん近づいてくるおかげで、彼の口元を十分に観察する(さっきの近視眼鏡をそのままかけていたのだ)余裕が、今回はあった。
 つまるところ、やはりおなかが空いているのだ。ヒトが食べているモノが気になってしょうがないのは、そういうことだ。余談だが、人とおしゃべりしていて、気づくと食べ物の話になっていることがあるが、あれもおなかが空いてきた証拠である。

 一人暮らしの冷蔵庫には、外出している間に食材が増えている、というミラクルは起こらない。夕方と同じ鰻おこわとチーズと柿の種わさび風味があるだけである。ハーゲンダッツアイスクリームもあるけど、これは「デザート」であって「食事」ではない。こういうときに限って冷凍ご飯も卵のストックもない。仕方なく、冷蔵庫の中で一番「食事」に近い、「桃屋のザーサイ」の封を切った。
 辛いなあ、と思いつつも、つい壜の半分くらいまで食べてしまった。気持ち悪くなって、お風呂に入って、寝た。
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by miltlumi | 2015-02-27 11:43 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)

一人とんかつカウンター

 仕事の関係で11時半前にランチを食べた土曜日、夕方6時前からお腹が空いて死にそうになった。帰りがけの電車の中で「とんかつを食べよう」と心に誓う。うちのマンションの筋向いに、お一人様用カウンターのあるとんかつ屋さんがあるのだ。

 店内、窓際の一番奥のテーブル席の夫婦連れの他はまだ誰もいない。「カウンターへどうぞ」というおかみさんの声に、私の代りにアルバイトらしき若い男の子(ちょっと松田龍平に似ている)が眉をひそめる。5人掛けのうち3人分のテーブルには、ご飯とキャベツの入った発泡スチロールの弁当箱がずらずらと並び、作業台と化している。この店は出前も扱っているのだ。
 一人客たるもの贅沢は言えないので、黙って端に座り、ロースかつ定食にかきフライ1つ追加する。かきフライをこよなく愛する私としては、いっそかきフライ定食にしてもいいのだが、電車内の決意を全うせねばならない。本当は2つにしたいが、1つ400円はちょっと高い。

 すぐさま出てきた白菜の浅漬けとほうじ茶と卓上の梅干、それと文庫本を開いて空腹をしのぐ。隣ではおかみさんと龍平君が目の回るような速さで出前弁当を詰めている。
  「ちゃんとタルタルソースいれた?」「はい」
  「これ、ヒレはどっちだったかしら」「こっちのほうです」
  「大盛りと普通盛り、間違えないでね」「わかりました」
 タッパからちょいちょいと切り干し大根を盛り付けながら、おかみさんは手も口もフル回転である。龍平君も仕上がった順に手際よくふたを閉めてセロテープで貼っていく。入口には女性二人。休日出勤の夕食買い出しなのか、6人分のとんかつ弁当を受け取るとそそくさと出ていった。
 カウンターが広くなったのも束の間、調理場側から鶏の唐揚げや串カツや山盛りの千切りキャベツの入った透明パックが差し出される。おかみさんが受け取ると、カウンターの上でテープ留めした上にくるりとラップで包む。龍平君がパックと同数のドレッシングボトルと割り箸をレジ袋に放り込む。文庫本を読むのも忘れて、しばしその手際に見惚れる。

  「母さん、この鶏唐は○○ハウスの○さんですか?」「あ、そうだわ」
 え。。。龍平君は彼女の息子だったのだ。どう見てもまだ二十歳そこそこ。仕事場では肉親にもちゃんと「ですます」調で応対する姿に、さらに惚れ惚れする。お茶のおかわりが欲しいのだけれど、○○ハウスの包みを数えている二人になかなか声がかけられない。調理場の3人のうちの頭領(おそらく父親だ)に小さな声で「キャベツ、いただけますか?」と言うと、「すんません、お皿持ち上げていただけますか?」
 「最初に坂の上の○○ハウス、帰りに角の△さんで、最後に□さんね」「わかりました」
 氷雨の降る戸外に息子が飛び出していく。ようやくおかみさんに熱いお茶を淹れてもらう。

 6年前のこの季節にもこの店に来た事を思い出す。甥っ子の大学受験の2次試験前日、うちに前泊した義姉と甥っ子と3人、お約束に従って「カツ」を食べに来たのだ。食べ盛りの男の子はさらに「エビフライ」も注文した。カツをダブルにしなかったせいで、その大学には落ちた。別の大学を卒業して、今では彼もサラリーマンである。あの頃、龍平君はまだ中学生くらいか。
 次に来る頃には、おかみさんの代りに龍平君の妻がせっせと切り干し大根を盛り付けているのかもしれない。

追伸:1つ400円のかきフライは、ロースかつ2切れ分くらいのでっかいやつだった。大満足。
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by miltlumi | 2015-02-22 16:32 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)

ダイヤモンド支所

 2月16日、富士山頂に陽が沈む、いわゆる「ダイヤモンド富士」の写真を撮ろうと300人が山中湖畔に結集したという。雲一つないくっきりした姿に何度もシャッターを切りながら、プロアマ問わず心の中で快哉を叫んだにちがいない。
 太古の昔から変わりなく地球が太陽の周りを回っている以上、当たり前のことだが、富士山頂にぴったりとはまりこむように太陽が沈んでいくのは、1年のうちこの数日だけである。しかも「ダイヤモンド富士」の真骨頂と言えるポジションは、おそらく1・2日しかないはず。今年の「その日」が曇りだったり雪だったりしたら、またあと365日待たねばならない。晴天だった今年は、まさに僥倖。

 社会面の下の方の小さな囲み記事につい過剰反応してしまうのは、私自身が毎朝「ダイヤモンド富士」ならぬ「ダイヤモンド支所」に一喜一憂(?)しているせいだ。
 マンションの3階にある我が家の東向きの窓は、植え込みの樹木越しににょきにょきと建っている遠近のマンションやオフィスビルを望む。冬至の頃は8時過ぎにならないと姿を現さなかったお日様は、年明けとともにどんどん早起きになり、上がる方角も南東から東に移動していって、出来立てほやほやの朝の陽光を惜しみなく部屋の奥まで射し入れる。
 それがあるとき突然、陽の射し始める時間がぐんと遅くなる。ちょうどお陽様が上がる方角にある区役所支所のビルに阻まれて、ビルのてっぺん付近まで行かないと部屋に陽が入らなくなるのだ。これぞ、「ダイヤモンド支所」。それがたった数日で支所を抜けて、束の間もとの早起きに戻る。その後またしばらく、さらに東に折り重なるマンション群に遮られ、建物の上に顔を出す頃には「出来立て」の柔らかさを失っている。

 このマンションに住み始めて丸14年になるが、こんなふうに冬の朝陽を定点観測したことはなかった。8時半始まりの会社に勤めていた頃はともかく、その前の会社はちゃりで15分、9時半に席についていればOKだった。ちょうど8時頃起床していたのに、陽の光が日々刻々角度を変えていくことはおろか、ダイニングテーブルの上にこんなに透明な光が射し込むことさえ気づかなかった。余裕がなかったのだ。
 5年前に自由業になってからは、朝いちで外出予定がない限りきままに朝寝をむさぼる不規則な生活だった。去年、一念発起して規則正しい生活を心がけるようになったおかげで、ようやくこの毎朝のミラクルを拝することができるようになった。
 朝の太陽は体内時計の調整にいい、といった実利以前に、起きた瞬間に太陽の光を浴びるのは、理屈なしに気持ちがいい。朝起きて、カーテン越しに漏れてくる空の気配が曇りだと、がっかりする。この時間にこの角度からやって来る太陽に再び会えるのは、365日も先なのだ。

 ダイヤモンド富士のにわかカメラマンのうち、有給休暇をとって都内から馳せ参じた会社員は何人くらいいるのだろう。絶景スポットに三脚を構えるには、半休では足りまい。昼前には東京を出て、日没の何時間も前に陣取り合戦を繰り広げ、ようやく場所を確保してからシャッターチャンスが到来するまでの数時間、ひたすらその瞬間を待つ。にわかに雲が湧いて山頂を無情に覆ってしまうリスクを覚悟の上で、じっと待つ。

 会社員時代の私だったら、「ヒマだねー」の一言で一蹴していたような行動が、今、妙に近しく、親しいものに感じられる。

<下の写真は、あいにくダイヤモンド富士ではなく、昨年10月のふつーのお陽さまと富士山です>
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by miltlumi | 2015-02-19 20:28 | フォトアルバム | Comments(2)

箱入り娘の下宿

 大学時代に下宿していた、とブログに書いたら、まさにそういう年頃の娘を持つ父親から心配性なメッセージをもらった。彼は私と同級生である。こちらはすっかりあの頃の気分に戻って書いていたのだが、あちらはしっかり今の立場で受け止めておられる。もはや若くない。ついこの間のように思える青春時代が、実は自分のコドモの世代だということに改めて驚異と、なんとなく厳粛な気持ちを抱いてしまう。
 彼の懸念は、可愛い娘が一人暮らしをしたいと言い出したがどうしたものか、ということらしい。実は、私は本当の一人暮らしではなく、父親の会社の子弟寮に入っただけである。寮と言っても大きな日本家屋をそのまま流用したもので、襖で隔てられた和室を二人でシェアするのである。日当たりの悪い北側の4畳半だけが独り部屋だった。日当たりのいい縁側に面した2階6畳間の私の同居人は、1つ年上の、とある公立大学の体育学部の人だった。きゅうりがキライで、毎晩がっつりストレッチをやっていた。

 同級生のように、一人娘の「独立」を私の父がどれだけ心配したか知らないが、下宿を始める前にひとつだけルールを課された。

 毎晩、寮に戻ったらうちに電話をすること。

 今のように携帯電話などない時代である。寮のダイニングルームの脇には、ピンク電話があって、電話が鳴ったら近くの部屋の子がとることになっていた。10円玉をたくさん握りしめて友達と長電話していると、彼氏から連絡が入る予定の別の女子がこれみよがしに周りをうろうろして無言のプレッシャーをかけてきた。なんとものどかな時代である。
 私はその電話から、毎日毎晩家に電話をかけた。父が応答することはなく、出るのはいつも母だった。かけさえすればいい、ということだから、何時になってもいい。彼氏と夜のドライブに出掛けても、コンパで盛り上がって午前様になっても、時間は問われなかった。
  「今、帰ったから」
  「おかえり」
 以上、終わり。おそらく寝端を起こされたのだろう。母は寝ぼけ声で一言応対すると、すぐに切った。だんだん私のほうから「明日はゼミの人たちとコンパだから」「彼とデートだから」などと予告をするようになった。宿泊のときは「スキー合宿だから」とちゃんと本当のことを言った(本当、です(笑))

 不思議と、街の公衆電話からうその電話を入れたことはない。「何時でもいい」と言われたら、そんな誤魔化しをする必然性もなくなる。多分あれは、両親の策略だ。あの程度の緩いタガなら、反発のしようもない。しのごの言われなければ、信用されていると思ってかえってちゃんとするようになる。

 あとから考えて、我ながらなんて箱入り娘だったんだろう、と呆れている。けれど、あれはあれで「人から信用されること」「うそをつかないこと」を学んだような気もする。
  「ほら、私って、箱入り娘なもんだから。。。」
 いい歳の大人になってから、大学時代以来の知り合いにそううそぶいたことがある。彼はにっこりとうなづいた。
 「うん、それはよく知ってる。今はもう箱から出ちゃったみたいだね
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by miltlumi | 2015-02-16 21:15 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)

小学校の水道の蛇口と相模湾

 そのカフェの商品受け渡しカウンターの横に貼り紙があって、「トイレ使用の際は鍵が必要です。お申し出ください」と書かれていた。単価が安いカフェチェーンを利用するのは、大概が次の予定までの時間調整兼化粧直し、である。鍵、ということは、カフェ内に化粧室がなく、外部から容易にアクセスできる雑居ビルの一画にある、という意味だ。ドアを開けると自動的にフタが開いてワーグナーの交響曲が流れ出す最新式は期待できそうにない。仕方ない。

 安いわりに美味しいお気に入りのサンドイッチとカフェラテのMを平らげ、カウンター越しに声をかけた。渡されたのは、一昔前の銭湯の下駄箱札のような大ぶりの板にぶら下がった鍵だった。札には「トイレ4階」とある。ものすごく遅いエレベーターが9階から降りてくるのを待って、ものすごくゆっくり4階まで上がって、ものすごく狭いトイレ(でも一応座面は暖かかった)に入って出て、鞄を置くスペースもない「手洗い場」と呼んだほうがよさそうな洗面ボウルに向かうと、なんとその蛇口は先がくるりと回って上に向くタイプであった。
 昔、小学校の「水飲み場」にずらりと並んでいた、懐かしいかたち。いや、中学や高校でもまだあのタイプだった。

 渡り廊下の端、棺桶を長くしたような形の直径3mmくらいの粗くて黒い砂を固めたみたいなざらざらした流し台に、均等に並んでいた銀色の蛇口。休み時間になると、渡り廊下のすのこをガタガタと鳴らしながら走って行って、先っちょがくるりと上に回るのは、水を飲んだりうがいをしたりするのに便利だった。
 けれど、放課後は別の使い道に変身する。放物線を描いて落ちるはずの水が、蛇口の先っちょの98%くらいを指で押さえて水圧を上げれば、固定水鉄砲合戦の武器になるのだ。小学校の掃除の時間は給食のすぐ後だった。「渡り廊下」当番は、いったんすのこを上げてその下のコンクリート敷きに大胆に水を流してモップで泥や埃を地面のほうに押し出し、それからすのこを雑巾で拭く。清々しく掃き清められ、撒いた水も半分乾きかけた渡り廊下は、放課後になると再び乱雑な水しぶきの餌食となった。不思議と、先生に叱られて止めさせられた記憶はない。
 
 ここで記憶の場面がふと切り替わり、ユーミンの「夕涼み」を思い出す。

  Day dream 灼けつく午後
  水撒きしてはしゃいだあのガレージ
  Hey dream ゴムホースで
  君がふと呼び込んだ虹の精

 この歌を口ずさみながら決まって思い出すのは、大学時代につきあっていた人のクルマの助手席で、運転席側ではなくてガラス越しの相模湾に目を向けている自分だ。たぶん、リリースされたばかりのこの「Pearl Pierce」をカーステで聴いていたのだ。
 相手に対して何か気に入らないことがあっても、面と向かって言う勇気がなかった。かといって機嫌のいいふりができるほど大人じゃなかった。彼の顔を見たくなくて黙って横を向いていると、「どうしたの?」と無邪気に尋ねられた。本当の理由はやっぱり言えず、思わず嘘が口を衝いて出た。
 「歌、聴いてるの」

 二度と来ない季節。水撒きしてはしゃぐには寒すぎる二月。
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by miltlumi | 2015-02-14 09:54 | 忘れられない言葉 | Comments(0)

苦手な質問 完結編 スキーサークル

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 「大学でなんのサークルやってたの?」という質問に「何もやってませんでした」と答えると、憐れみと軽い蔑みの表情を浮かべられる。5連敗の軌跡をたどってきて、この質問をされても一度も思い浮かべなかった「隠れサークル活動」をやっていたことを思い出した。大学2年の冬から卒業まで(長いじゃん)、なんとスキーサークル(運動音痴なのに)。

 うちの大学には秋休みという素晴らしい制度があり、夏休み直後の前期試験が終わると、9月下旬から10月中旬まで数週間休みがあった。暑くて日焼けはするし観光地に人がわんさか集まる8月より、この季節のほうが断然旅行には適している。
 サークルというコミュニティーには属さなかったものの、1・2年の語学クラスの同級生3人の仲良しミニコミュニティーは、皆旅行好きだった。1年生の秋休みは上野発の夜行列車で青森まで行って奥入瀬の紅葉や小岩井農場のソフトクリーム(今度は落とさなかった)を楽しみ、2年生のときはやはり寝台特急で金沢・東尋坊の旅を楽しんだ。
 忍者寺の近くのお土産屋さんで、野菜の形をした1つ百円の箸置きを「嫁入り道具に」と5つ買い求めたついでに、車のフロントグラスに吸盤で張り付ける忍者の恰好をしたカラスのマスコットを買った。浪人生活の末私大に合格した、高校時代の同級生男子をなんとなく思い浮かべたのだ。

 途中は省略するが、カラスの縁でめでたく別の大学の彼氏ができた。授業をさぼってあちらの大学の法学の授業にもぐり込んだり、彼の大学と私の大学が激突する野球の試合を見に行ったり(もちろん彼の大学側に座る)、人並みの青春チックなおつきあいを展開したわけである。
 その彼が、友達数人とスキーサークルを立ち上げた。女子は他大学からの参加大歓迎。アメフトのクレオパトラさんと同じ女子大やら近くの短大やら色々と集まってきて、ついでに私も入部した。といっても、スキーシーズンに新宿発の夜行バスに乗って志賀高原やら八方尾根やらに合宿に行くだけの半幽霊部員である。
 高校同級生かつ1浪の彼が創立メンバーだから、メンバーはほとんど私と同い年か年下である。しかもコアメンバーのカノジョという輝かしい地位を占めた私は、カワイイ年下の女子大生(きっと私のカレに憧れてたコもいたんだろうなあ。ほほ、優越感)や年功を重んじる昔気質の男子学生(彼らにとっては『姐さん』なわけで)から、下にも置かないおもてなしを受けた。うふふ。

 あれが、私の唯一の「大学時代のサークル活動」である。何度も言うように破滅的な運動音痴のせいでパラレルもまともに滑れず、八方尾根の中級者コースに誤って登ってしまったときは半泣きでゲレンデの端っこをずるずる横滑りしながら降りた。
 スキーの腕前は最後まで上達しなかったけれど、水色のキルティングでスパッツを縫ったり、複雑な編み込み模様の色違いのセーターを編んだり、ゲレンデでのペアルックは完璧だった。
 大学卒業直前には、当サークル初の卒業生ということで、みんなが「追い出しコンパ」をやってくれた。ファンシーなイラストの寄せ書きノートと「○○センパイは手芸好きだから」と木製の可愛い針山と小物入れをお餞別にもらった。

 彼とは卒業後しばらくして別れてしまったが、彼と同じコアメンバーだった男子学生のカノジョ(つまり私と同じ地位にいた女子)とは、それ以来ずっと親友である。針山と小物入れ、そして5つの野菜形の箸置きもいまだに現役である。
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by miltlumi | 2015-02-10 16:42 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)

苦手な質問 (その5) 大学新聞編集部

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 サークル4連敗まで喫すると、性格テストの「コンプレックス度」が低い私も、さすがに真面目に考え直そうという気になった。一体自分は何がやりたいのか。何が好きなのか。どんな選択肢があるのか。考えて、結論が出た。
  「大学新聞編集部」。
 書くことが好きだ、ということに気づいたのである。小説とか俳句とかではなく、事実に基づいた文章を書くこと。本多勝一のルポを読んだ影響もあった。かくして、教養課程キャンパスから電車を乗り継いで、専門課程キャンパスの一画にある編集部の門を叩いたのである。
 編集部は、戦前からの長い歴史を持つ、サークルというより本気の活動であった。歴代編集長はみな大手マスコミに就職していた。正直、就職のコネになるかも、という下心も働いた。ごしゃごしゃと色んな紙が山積みになった雑然とした編集部。最初は研修と印刷工場で字組みの現場見学などもさせてもらった。
 初めて自分の書いた記事が活字になったのは、裏面の小さな囲いコラムである。細かいことは忘れてしまったが、雨の日に教養キャンパスから専門キャンパスに向かう電車の中で交わした見知らぬおじさんとの会話がネタだった。編集長は、「この最後の『ちょっぴり』というコトバ、俺たちにはとても書けないね~。なんか女の子っぽくていいねえ」と嬉しそうにしていた。そう、私は唯一の女子学生編集部員だったのだ。
 「唯一の女子」という特権で、退官教授のインタビューなどでも「ほお、女子編集員ですか。頑張ってくださいね」などとありがたいお言葉をかけていただいた。

 この特権が、裏目に出た。春休みの合宿と称して、伊豆にある大学寮に行ったときのことである。男子学生7・8名に女子一人。逆ハーレム、と言えば聞こえはいい(?)が…。寮の自転車で海まで遠征したのだが、運動部の強化練習まがいのきつさである。おまけにようやく着いた岬の崖っぷちでよろけて、売店で買ったソフトクリームを落としそうになった(それはあまり関係ないか)。
夕食後のコンパ。お酒に弱い私は早々に部屋(もちろん個室)に引き上げてベッドに入ろうとしたとき、ものすごい音でドアが叩かれた。
  「○○、でてこーいっ! 酒飲もうぜっ。何気取ってんだよ~」
 鍵を壊されるかとベッドの上で凍りついた。部員の中でも物静かで優しげな風貌だった先輩が、一番酒癖が悪かったのである。すぐに編集長の声がした。「△、やめろよ。戻れよ」騒ぎはじきに収まった。

 しかしこの事件は、「唯一の女子」をびびらすには十分だった(当時はウブだったのだ)。編集長はすごく惜しんでくれたのだが、結局4ヶ月余りで辞めてしまった。

 たったそれだけの短い期間だったが、就職試験の面接で「大学時代、サークルは何をしていましたか?」という質問には、この編集部ネタを最大限活用した。インクの匂いのたち込める工場でのゲラチェック、退官教授に励まされたこと、ESSで発揮しそびれた演技力を発揮して臨場感豊かに話をした。それがどれだけ奏功したかわからないが、一応当時の人気企業にめでたく就職した。マスコミは筆記試験が大変だというので、最初から受けなかった。
 「大学時代なんのサークルやってたの?」という質問が苦手なのは、もしかすると、あのときの誇大宣伝に対する後ろめたさのせいなのかもしれない。
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by miltlumi | 2015-02-07 20:49 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)

苦手な質問 (その4) 幻のESS Drama

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 大学サークル挫折人生は、まだまだ続く。

 3連敗のあと、幸いサークルに準ずる課外活動に恵まれた。学園祭の出し物である。11月に行われるこの学園祭は、教養課程の1・2年生がクラス単位で出し物をやるのが伝統で、夏休み前から早々に準備に入る。文系のわがクラスはアガサ・クリスティーの演劇をやることになった。面映いことに、国語の朗読で演技力を培った私が主役だった。だから、8月からの4か月間は演劇サークルに属しているような毎日であった。

 銀杏の落ち葉でキャンパスが金色に染まる中、2日間の公演が無事終わった。さてこれから先、何をしようか。その頃には遠距離通学から卒業して都内で下宿を始めていたから、時間は有り余っている。遅ればせながらの五月病になりかけたとき、ともに舞台に立ったクラスメートから大学の隣にあったコロラドコーヒーショップに呼び出された。ESSのドラマに入らない?という誘いだった。
 「あの演技力、ぜひESSのドラマで発揮してもらいたいんだよね」
 熱く語る彼に、私は大きく横に首を振った。英語のスピーキングが、運動神経に勝るとも劣らぬほど破滅的に出来なかったのだ。
 何しろ公立中高で受験英語しか勉強してこなかったから、文法やスペルや発音記号の問題は解けても、聴く・話すがほとんどできない。4月の最初の英語の授業でいきなりやらされたディクテーションのミニテストは、クラスで断トツのびりっけつだった。隣で採点してくれた、LL教室完備のなんとか大学附属高校出身の彼女に、同情のあまり「なにかの間違いじゃない?」とまで言われた。

  「だから、英語で台詞なんてゼッタイ出来ないよ」
 ネイティブ張りの英語を話す彼は、そんなことないよ、少し練習すれば大丈夫だよ、これちょっと読んでみ、と言って、ESSの台本を差し出した。それを読み上げる私の見事なジャパニーズイングリッシュに、彼は一瞬眉を曇らせる。しかし彼は諦めなかった。
  「僕が特訓してあげるからさ」
 豚もおだてりゃ木に登るタイプの私は、だんだんその気になってくる。つい先頃舞台上で聴いた拍手の残響が甦る。思えば、高校の演劇部ではもっぱら照明・大道具係で、ついぞ舞台に立つことなく8ヶ月で退部(高校時代もサークル挫折人生だったのだ)した。そのときのリベンジ気分も盛り上がってくる。
  「ちょっと考えてみるわね」
 一応もったいつけて、キリマンジャロコーヒーを飲み干してから立ち上がった。

 でも、結局ESSには入らなかった。ESSのドラマに所属している別の友達にこの話をしたら、やらないほうがいいんじゃない、と言われたのだ。
  「ドラマにはAさんやBさんがいるし、第一あなた、英語得意じゃないでしょ」
 学年一と言われる美人や英語力堪能の才女の名前が挙がった。とてもじゃないが、文字通り私の出る幕はなさそうだった。
 
 ESSに入らなかったおかげで、その後も英語力はヒサンなままだった。3年生の英会話授業で、イギリス人の先生から「キミの発音はオカシイ」と言われ、衆人環視の中で何度も発音させられた単語は「IT」である。イット。それ。マジ、です。
 こんな私も、就職して海外関連の部署に配属されて数年修業を積んだおかげで、人並みに英語をしゃべれるようになったのは全くの僥倖である。小学生から英会話を教えようという機運の高まっている今日、「んなもん大人になってからでも間に合うわい」とうそぶいている。
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by miltlumi | 2015-02-04 22:25 | Comments(2)

苦手な質問 (その3) 心理学研究会

(その1)はこちら・・・
(その2)はこちら・・・
 大学時代、サークル活動を享受する前に挫折してしまった苦い経験は、まだある。心理学研究会。これぞ文学部系の正統派的サークルである。アメフトにフォークソングに社会心理学。こう並べただけで心理学の研究対象になりそうな支離滅裂さである。

 コトの始まりは、大学受験時の学部選びに遡る。当時、文系の学部といえば法学部と経済学部と文学部しかなかった。今のように、社会情報学部とか異文化コミュニケーション学部とか総合グローバル学部とか、そういうものは一切ない。政治経済が不得意な私には、経済学部という選択肢はありえない。横断歩道は赤でも渡る反遵法主義だから法学部もNG。消去法的に文学部系を選んだ。幸い入学時に学科まで選択する必要はなかったから、文学部の中に何学科があるのかさえよくわかっていなかった。
 ところが、入学早々、自分の認識の甘さを思い知る。1・2年生は「語学クラス(私はドイツ語専攻)」がひとつの単位となるのだが、そこで出会った一人に、早速尋ねられた。
 「何学科に進学するつもり?」
 何をどうトチ狂ったのか、そのとき私は口から出まかせにこう答えた。
 「ロシア文学
 ドイツ語選択のクラスで、どうしてこんなことを口走ったのだろう。本人さえ意外な答えに、彼女の追及が続く。
 「じゃあ、トルストイとドストエフスキー、どっちが好き?」
 「トルストイ」
 これまた私の答えは速攻だった。その時点で、トルストイは「アンナ・カレーニナ」と「戦争と平和」しか読んだことがなく、ドストエフスキーに至っては、父の本棚に並んだ「罪と罰」とか「カラマーゾフの兄弟」といったセクシーじゃない題名に食指が伸びず、いずれも最初の数頁しか読んだことがなかった。大体ロシア文学やりたいのになんでドイツ語専攻するのよ。

 さすがにまずいと思い、改めて学部要綱にじっくり目を通した。そこで見つけたのが「社会心理学」。よくわからないけれど、なんだか面白そう。もともと心理学には興味もあったし。その直後、語学クラスの1年先輩によるオリエンテーション(うちの大学では、2年生が1年生を指導するシステムがあった)で、一人ずつ希望学科を述べさせられた。私は「ロシア文学」の舌の根も乾かぬうちに「社会心理学科希望です」とほざいたのである。
 そこにいた先輩の何人かが心理学研究会に名を連ねていたため、必然的に連れ込まれた。授業以外で真面目に勉強するのもいいかも、くらいの、これまた軽いノリだった。

 しかし、最初に輪読の題材として指定されたユングのなんとかいう本一冊で、私の社会心理学熱は一挙に冷めた。ムズカシくて何が書いてあるんだかさっぱりわからない。さらには、新入生だけ怪しげな心理テストを受けさせられ、私の「コンプレックス」の評点が異様に低いのを見た先輩に「こんなに低いって変。実はものすごいコンプレックスわざと隠してるんじゃないの」と言われ、なんだか深層心理をえぐられたみたいで居心地が悪かった。 
 一方、本チャンの授業である心理学のほうは、あてがわれた教科書の中でひたすらネズミが迷路を走り回っていた
 かくして、学問の奥深さ(というよりわけわからなさ?)と勝手な性格分析への逆ギレで、社会心理学研究会も速やかに脱会した。
 サークル三連敗。花の女子大生、キャンパス生活の行く末が思いやられる。
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by miltlumi | 2015-02-03 20:47 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)

苦手な質問 (その2) フォークソング部!

(その1はこちら・・・)
 大学時代のサークル活動。1ヶ月ちょっとで退部したアメフト部と同じくらい最短距離で辞めてしまったサークルがもうひとつある。
 フォークソング部。うわっ。なんてノスタルジックな響きっ

 小学校5年の3学期に私にラブレターをくれた男の子が、さだまさしのファンだった。中学1年の2学期に転校してしまった私は、その後何年も彼と文通(これまたノスタルジックだ)を続けた。その中で、彼は時折さだまさしの歌の楽譜(五線譜に手書きのおたまじゃくし!)や歌詞を同封してくれた。折しも兄は吉田卓郎やかぐや姫に傾倒し、親にせびってフォークギターを手に入れた頃。兄が聴くカセットテープをそのままレパートリーに組み込んだ私は、以来フォークソング一辺倒だった。
 従って、フォークソングサークルに入ることは、運動音痴がアメフトマネージャーをやるよりはよっぽど筋が通っている。数あるサークルの中から、どういう基準で選んだか忘れてしまったが、とにかくひとつに入ってみた。

 アメフトのように毎日毎週末活動することもなく、穏やかなものだった。最初のビッグイベントは天皇誕生日の4月29日(まだ「昭和の日」ではなかった)、東京都立大学(まだ「首都大学東京」ではなかった)でのフェスティバル。
 期待の新人(?)ということで、何を歌うか私の意思を尊重していただけることになり、さんざん悩んだ挙句に珠玉の1曲を選んだ。
 谷山浩子の「カントリーガール」。
 うわっ。めっちゃベタやんっ。はずかしっ。しかし、私以上に遠いところから上京してきて下宿暮らしをしている先輩の長髪黒縁眼鏡の男子学生は、いいねいいねと大賛成してくれた。何度か練習した後、ベルボトムのジーンズ姿で都立大の大教室の「舞台」に立った。今、こうして書いてるだけでも恥ずかしいが、そのときは結構悦に入っていたのだ。

 問題は、その後だった。無事ステージを終えて、眼鏡の先輩とキャンパス内の屋台を冷かして歩いていたとき、彼がジュースだか何かを買った。まだ消費税が導入される前だったのに、それが103円とか105円とか中途半端な値段だった。
  「あー、細かいものないから、100円に負けてくれないかなあ」
 先輩が言った。しかし相手の学生はガンとして負けない。千円札しかないのかしら、と思い、ごそごそと自分の財布を引っ張り出そうとしたら、先輩は案外あっさりと引き下がった。そしてポケットから出したのは、100円玉と10円玉を1つずつ。え、細かいものって、1円玉のことだったの…? 
 1円を笑う者は1円に泣く。質素倹約を旨とすべし。今ならわかる。毎週金曜日はポイント2倍デーだからと、近所のスーパーで千円の買い物をして得した気分になれる私にとって、彼の態度は見上げたものである。しかし当時、華やかな都会に憧れる「カントリーガール」であった私は、大いにビビった。1円ぽっちをケチる人と共に青春を謳歌するのは、いかがなものか。

 まもなくそのサークルが「うたごえ運動」に関わっていることも発覚し、敢えなくここでも私は退部届を出した。
 公の聴衆を前にして舞台の上でソロで歌ったのは、後にも先にもあのときだけ…と書きかけて、突然記憶がフラッシュバックした。小学校4年のとき、神社のお祭りののど自慢大会で友達と「もみじ」をデュエットしたこともあったっけ。
 真剣に生きるということは、ハズかしいことの連続かもしれない。
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by miltlumi | 2015-02-01 14:56 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)