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すっ飛ぶ屋根から無尽蔵のメモリー容量

 私と同世代の知り合いが、実家に行くたび母親から「台風がきたら屋根がすっ飛びそうで怖い」とマジで言われ続けているという。築30年以上とはいえ、一流メーカーが建てた立派な一軒家である。そうカンタンに屋根がすっ飛ぶはずないのだが、科学的な説得はこの手の心配に対して意味をなさない。私の母も、同時期に建てられたナショナル住宅が雨漏りのせいで屋根が抜ける、とずっと心配し続けている。
 藁葺屋根の下に住んだ経験のある世代にとって、おそらく屋根は風で飛ぶものであり、雨で落ちるものなのだ。次の世代の私たちにはナンセンスとも思える妄想が、彼女たちの記憶の中では「現実」なのだ。

 似て非なる話だが、やはり私の親世代の一流企業の社長は、たまさか自宅で砂糖を切らすと妻に向かって烈火のごとく怒るという。んなもん、徒歩3分のコンビニですぐ買える(しかも1年分くらい買い貯める資力もストック棚も備えている)のに。きっと彼の育ち盛りの時期が終戦と重なり、甘いものを腹一杯食べてみたいという飢餓感が、平和な時代になっても強迫観念のようにずっと尾を引いているのだろう。
 これと似て非なる母の習性は、じゃがいもと玉ねぎと人参を切らしたことがない。この3つがあれば肉じゃがもシチューもカレーも、和洋中(じゃなくエスニック)なんでもござれだ。けれど、エスニックと一口に括れないくらい豊富な食材やレストランがあふれる今となっては、特定の野菜がなくても全く大勢に影響ないと思うが。

 かくいう私の「3種の神器」野菜は、長ねぎと生姜とニンニク。メイン食材はストック不要、その都度スーパーで買えばいいと、母よりは進化したが、薬味野菜は「あると思って、なかった」ということがままある。まさに炒めんと切り揃えられた豚肉と青梗菜を前に呆然、という憂き目を見たくない一心で、薬味野菜は切らしちゃいけない、と信じ込んでいた。でも世の中は変わり、今や世界のスパイスがあふれている。生姜がなくてもクミンやローズマリーやオイスターソース(スパイスじゃないか)がある。強迫観念から解放されれば、俄然生活は(精神的に)ラクになる、のだけど。
 戦後70年近くたち衣食住の満ち足りた今、無用の心配に振り回されることなく、安寧に日々を過ごしたいものだが、それができない旧世代は(私も含め)少なくない。

 衣食住だけではない。時代遅れの強迫観念だと気づいて、最近ようやく解放されたものは、PCやメールボックスのメモリー容量。昔勤めていた会社はメールホルダーに個人割り当て制限があって、ばりばり写真を貼り付けたパワポ添付のメールをほいほい保管しているとすぐに「制限を超えています」警告が来た。ただでさえ整理好きな私は、添付ファイルは全て部内共有サーバーに保管し直して、メールホルダーに残さないようにしていた。そいでもってサーバー内に余計なファイル(最終版が完成したプレゼン資料の途中のドラフトとか)がないか常に見回りをしては削除しまくっていた。
 今や地球上のメモリー容量は無限大、と思えるほど、あっちもこっちもファイル・データだらけである。無料のGmailでさえ、ほいと10Gを割り当ててくれる。ちまちまファイルを移すなんて、無意味もいいとこだ。

 …屋根がすっ飛ぶ話から、とんでもないところまで話がすっ飛んでしまった。言いたいことはつまり、時代の変化につれ、過去の経験に基づいた憂いなきための備えや生活の知恵は、単なる陋習、時代錯誤の思い込みになってしまう、ということ。益々速まる時代のスピードに振り落とされ、過去にしがみつく人々は(自分を含め)増える一方かもしれない。
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by miltlumi | 2013-05-25 22:36 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)

BOOKOFFは苦手 (下)

(上)はこちら・・・
 
 とは言うものの、お売りしたいものがたくさんあるときは、やはりブックオフが便利である。先日も、昔仕事の関係で頂戴したまま一度も聴いていないCDや、勤め先の書棚を整理しているときに発掘した(社長が出版元から贈呈と思しき)DVDがごちゃまんと出てきた。とっとと換金して会社のみんなとケーキでも食べましょ、と思い、紙袋に詰め込んでちゃりでBOOKOFFに乗りつけた。
 その中に、丸山茂樹の最新打法なんちゃらというハウツーもののDVDが2枚紛れ込んでいた。それを目ざとく見つけた店員が、事務的な声を出す。
 「いちどきに同じものが2枚の場合、1枚分のお値段しかつきません」
 なにそれ。盗品対策なのだろうが、既にこちらの身元はバラしただろうが。「こちらの用紙にご記入ください」とハンディ端末からにょろにょろ印刷したバーコードつきの用紙を手渡され、身元確認に免許証を見せろと言われ、先の用紙でついブランクにしてしまった年齢欄を指差して「年齢もご記入ください」と言われ(知りたきゃ免許証の生年月日見ろよ、と言いたいが、昭和で書いてあるもんだから咄嗟に引き算できないのだ)、背後では神経を逆なでするあのオンナの声が鳴り響き、もう十分私の感情はささくれ立っている。
 とはいえ、マニュアル通りに動くことしか教えられていないバイト君を相手にいちゃもんつけてもかえって怪しまれるだけだ。ここはおとなしく引き下がることにしよう。「じゃあもう一枚はそちらで処理してください」と言いそうになって、おっとっとと口をつぐむ。改めてお売りしにくればいいや。
 ちなみに定価10,500円(税込)だった丸山茂樹は、たったの600円。まあ、ロブションの「ピラミッド」(この前食べたらとても美味しかった)は買えるから、ま、いっか。それにしても、あのままうっかりDVDを明け渡さなくてよかった。あやうく「オペラ」を買い損ねるとこだった。

 この際、ぐるっと古本の棚を眺めたあとで、改めてこの1枚をカウンターに出すか。まとめて2枚出すのがNGなら、分けりゃいいんでしょう、分けりゃ。
 昔よくアメリカで、クリニークを$30以上買うと美容液や口紅やアイシャドーがごちゃまんと入ったスペシャルキットがもらえます、というプロモーションをやっていた。出張のたびに化粧品をまとめ買いしていた私は、$100も買うのにキット1個ってどうよ、と思ったが、まだ若かったので何も言えなかった。でも悔しいから中国系アメリカ人の男性に話したら、スーパー交渉術を教えてくれた。
 「$30でも$100でもおまけ1個しかくれないんなら、オレは今$30だけ買って1個もらい、5分後に戻ってきて$40買う。さらに10分後にもう一度$30買えば、全部で3つもらえる。そしたらオマエはレジを3回打たなきゃなんないんだぞ。そんな面倒なことするくらいなら、今$100買うから今3つよこせ」
 そうやってオレの奥さんは一度に3つもらってるぜ。がははっ。Allen Chanは豪快に笑い飛ばしてたっけ。

 …と思ったのだが、ここは日本である。隣にAllen Chanはいない。5分後に戻ってきてまた丸山茂樹を差し出したら、バイト君に平坦な声で「先ほどすでに同じものを一枚お売り下さいましたが…」と言われちゃいそう。ハズカシイからやめとこ。

 かくしてその日は退散。4日後に再びブックオフを訪れ、あのバイト君がカウンターにいないことを遠巻きに確認した上で、ちょっとどきどきしながら丸山茂樹を差し出した。先日と同じ、600円だった。
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by miltlumi | 2013-05-21 23:28 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)

BOOKOFFは苦手

 私は、BOOKOFFが苦手である。古本や古CDをリサイクルするというモッタイナイ精神は私の信条に合致するものの、それ以前の問題として、あの店構えはおのれが古本屋だという自覚に欠けている気がするのだ。

 まず、入り口に小綺麗に化粧した若い女性が立っていて、英検テストやリンガフォンのチラシなんぞを配っている。それじゃあふつーの本屋とおんなじじゃないか。
 古本屋といったら、店の一番奥のレジの向こうに老眼鏡を鼻眼鏡にしたおやじがいて、その妻、もしくは第二新卒でいやいや家業を継ぐことになったどら息子が、人一人がやっと通れる狭い通路の両側に山と積まれた古本にはたきをかけている、というのが古き良き時代からの定番である。
 より現代的な古本屋でも、アルバイトの店員は色白で黒縁眼鏡の無口そうな青年でなければならず、彼らはいきなり入り口で客に声をかけるなんて節操のない営業マンみたいな真似は絶対にやらない。レジのカウンターにこれみよがしにトンと音を立てて古本が置かれ、「あのお」という声がするまで、ひたすらレジ奥のパイプ椅子に腰掛けて仕入れた古本の側面にしゅりしゅりと紙ヤスリをかけている。そういうのが古本屋の正しいあり方なのである。渋谷センター街のドコモショップじゃあるまいし、いきなりねえちゃんがにこやかに声かけてきてどうする。

 次に、店内に流れている音楽の音がBGMというには大きすぎる。HMVやジャズ喫茶じゃあるまいし、本屋にくる人は本が欲しくて店に滞在しているのであり、音楽を聴くためではない。1月と7月の「半期に一度の大バーゲン」期間中のデパートは、女性たちの「お買い得品GET」への戦闘本能を駆り立てるためにロッキーのテーマみたいなアップビートな音楽を流すのが常套手段となっている。しかし、本屋で売るのはTシャツではない。卑しくも本という文化的産物なのだから、安いからと言って色違いをまとめて3枚買っときましょ、などという代物ではないことをBOOKOFFは認識すべきだ。
 しかも、定期的に「今日は、ちょっとブックオフの思いを聞いてもらいたくて…」という、客が聞きたくもない押しつけがましい宣伝がたれ流されるのである。売ろうと買おうと、んなことオマエに指示される筋合いはねえっ、とつい怒鳴りたくなる。資本主義の掟にがんじがらめにされた東証一部上場企業として、積極的に売上増のための施策を推進せざるを得ないことは、ビジネスマンの端くれの私もわからないではない(利益なんてお下劣なものを追及したくない本屋や出版社は、だから上場しないのだ、たぶん)。しかしオフの日(そうだ、ブックオフに行くのは普通オフの日なのだ)の客は、古本の独特の香りと佇まいを一人静かに味わいながら、知らない本との出会いを求めてさ迷うことを楽しみにしているのだ。仕入・売上のみならず、コーポレートアイデンティティー、みたいな言葉まで思い浮かべてしまうあのアナウンスは、興ざめ以外の何物でもない。

 ごくたまに、あの忌まわしい宣伝文句も音楽も途切れる静寂の瞬間がやってくる。しかし油断はならない。いつまたあの声が聞こえてくるか、戦々恐々と構えてしまう。臨戦態勢を崩せないから、本を探す意欲などすっかり失せてしまうのだ。
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by miltlumi | 2013-05-20 21:55 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)

シンクロニシティー Synchronicity

ポインセチアは春になったら大胆に枝を刈りこみましょう。
6・7年前のクリスマスにいただいた鉢植えの手入れの仕方をようやく知り、
3月初めに「大胆に刈りこんだ」結果、すうっと枯れ枝のままだったのが、
今週に入って、ようやくちっちゃな若葉が1枚、開いた。

早過ぎた刈り込みと同じころに友人にもらったベルフラワー。
「花が終わったら捨てちゃっていいから」と言われたが、そうできるものでもない。
大きな鉢に植え替えて、毎朝花殻を摘むうち、かえるの手みたいな葉っぱだけになってしまった。
それが昨日、ひとつだけ伸びてきたつぼみが、開いた。

ポインセチアとベルフラワー。
置いた場所も離れているけれど、
お互いと、そして季節と、シンクロしている。
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by miltlumi | 2013-05-18 06:59 | フォトアルバム | Comments(0)

西行

   ふかき山にすみける月を見ざりせば 思出もなき我身ならまし
   
 西行がマイ・ブームである。あまりに有名なあの歌に初めて接し、彼の生き方に強く憧れたのは高校の頃。

  ねがはくは花のしたにて春しなん そのきさらぎのもちづきのころ

 4月生まれの私も、誕生日がくる区切れのいいときに死にたい、とロマンチックな夢想こそ抱いたものの、それ以外の歌にまで興味の触手を伸ばすことはなかった。今頃になって、小林秀雄や吉本隆明の「西行論」を通してこの歌人に少しだけ踏み込むようになった。そこで出会った冒頭の歌に、心がさざ波だった。

 ふかき山とは、西行が庵を編んだ吉野の山奥にある深仙のこと。深い山の峰にかかる月を見て、この月を見なかったら来世まで持って行くこの世の思い出とてなかった、という思いを詠んだ歌だという。
 いまわの際に心に思い浮かべて来世にまで持って行きたいと思う、自分が生きてきた証となるような思い出として、西行は「月を見たこと」を挙げるのである。それから九百年近くたち、「出家」という行為が資本主義社会の中で事実上成り立ち得なくなった今、現代を生きる我々の感覚からいかにかけ離れていることか。
 自分が成し遂げたことや築き上げたもの、あるいは自分が愛した家族、そういういかにも現世的な、能動的な思い出ではなく、限りなく受動的な行為。というより、それはもう行為というより思考や感情、思念や感覚に近い。

 桜や新緑や空や雲や、あるいは美術館に展示された紀元前25世紀の陶器や中世の油絵の美しさに見とれることができるのは、ちょっとしたプチ・西行モードかも、と優越感に浸りたくなることがある。
 けれど、そういう受動的なことにばかりかまけているのは、何かから逃げているような、後ろめたい思いが心の隅をかすめるのも事実である。

 働きもせずにぼおっとしているのはそれこそ人生の無駄遣いである、ぼけぼけしているヒマがあるならもっと真面目に働け、とよく言われる。人生即是アクション、能動的に何かにチャレンジしてこそ意味があるのだ。ただただ自然を愛でるというような、霞を食ったような生き方をしたいなら、その前にしっかり働いて世の中に貢献してからにしてくれ。
 そう言われても、西行に憧れるような思考回路の持ち主にとっては、一体何にチャレンジすればいいのか、途方に暮れてしまうのだ。

 そうした俗世から自らを訣別させた西行だったが、彼とても自分自身に納得していたわけではないらしい。

  人はうし なげきはつゆもなぐさまず さはこはいかにすべき心ぞ

  いかにせむ 世にあらばやは世をも捨てて あなうの世やと更に思はむ
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by miltlumi | 2013-05-16 20:45 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)

クリアホルダーの怪 (下)

(上)はこちら・・・

 ギジュツの進歩で薄くて安いホルダーを大量に供給できるようになったこともあるのだろう。気づくと、社内文書はおろか、銀行や証券会社の商品案内や自宅の郵便受けに入ってくる不動産広告までもが、ちんまりとクリアホルダーに守られてやってくるようになった。クリアホルダーに入れておきさえすれば、なんとなく重要書類に見えてハクがつく、どんなチラシでもとりあえずホルダーに入れておけば、ゴミ箱直行にはならないだろう、という巧妙なマーケティング心理学が透けて見える。
 ここまで普及すると、なんだか駅前で配られるポケットティッシュみたいだ。無造作に捨ててしまう人もいれば、私のようなビンボー性は相も変わらずステるのはモッタイナイ、と収集癖を発揮する人もいる。ティッシュとの最大の違いは使ってもなくならないこと。再利用のためには、書類を抜き取ったあとの空ホルダーを引き出しに入れ、次に使うときはTPOに応じて傷が少ないものを選び取る、という時間をかける必要がある。それにかかる自分の時給と、アスクルで買えば1枚あたり5円弱という価格を見比べると、なんだか神妙な気持ちになってしまう。

 オフィスの整理をしていたら、大量の、しかもほぼ新品のクリアホルダーが発掘された。退職者が後任に引き継ぐつもりだったのか、Eメールのプリントアウトとその関連書類2・3枚程度が、それぞれご丁寧に新品のホルダーにはさまっている。テーマも何も分類されておらず、もちろんホルダーの色分けなどされているわけもなく、すべてがのっぺりとホルダーに入っているだけ。後任者も手を付けていなかったらしく、ホルダーには折り傷ひとつない。モッタイナイ。
 自分の時給を気にしながらも、書類だけ抜き取って機密書類破棄用段ボールに突っ込み、ホルダーを救出しないわけにはいかなかった。けれども、リサイクルというけちくさい風習のな組織の文房具棚には、こうやって私が救済したほぼ新品のホルダーが既にごちゃまんと保管されているのだ。社員たちが一生かかっても使い切りそうにないホルダーの束を見て、思わず歎息する。

 仕事の場面での使い捨てばかりではない。美術館に行けば、特設展示されている印象派の油絵や葛飾北斎がクリアホルダーのプラスチック上に高度な印刷技術で再現され、絵葉書や画集とともにミュージアムショップに鎮座している。
 さすがに会社じゃこんなにぎにぎしい柄は使えないでしょう、と通り過ぎようとすると、誰に何の書類を提出する業務を担っているのか、妙齢のオバサマたちがせっせと買い求めて行く。あれは他人に渡すときのためではなく、自分の書類、人間ドック結果とかスポーツジムの週間プログラムとかをダイニングテーブル横の「家事コーナー」に保持しておくための用途なのだ。
 こうした場合、プラスチック上のルノワールは、シアワセなことに使い捨てどころか何度も何度も何度も書類を入れたり出したりすることになる。それはそれでよい。しかし、そもそもたかが「バザーのご案内」みたいな書類を300円もするクリアホルダーに仰々しくいれるのもね。それに、セザンヌの蓮池と安藤広重の富士山にチベット仏教の曼荼羅模様が加わった様相たるや、私の往年のグラデーションホルダーの統一感とは比べようもないではないか。ま、いっけど。

 会社の備品を盗み出してから早8年。大事に使い込むうちにグラデーションがひとつふたつと歯抜けになり、手元には水色とオレンジ色を1枚ずつ残すのみとなった。でも、必要になれば、あのオフィスの無尽蔵のストックからちょいと拝借してくればいいのだ。
 世の中にあふれかえるクリアホルダーに不可思議な思いを禁じ得ないのは、私が前世期の遺物となりつつある証拠だろうか。
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by miltlumi | 2013-05-08 08:57 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)

クリアホルダーの怪 (上)

 世の中に、クリアホルダーがあふれかえっている。ちょっと前までは(と指折り数えてみたらもう15年くらい前になってしまった)あれはオフィスの中でもちょっとした貴重品だった。貴重品らしい威風を保つために、レインボーを凌ぐカラーバリエーションが取り揃えられていた。

 貴重品だから、再利用が当たり前だった。いずこの部署からやってくるクリアホルダーは、中身だけ抜き取ってしばらく引き出しの中でスタンバイさせる。別の部署に書類を渡す段になって、引き出しのストックから1枚を抜き取って書類を差し込む。受け取り手の顔を思い浮かべて、オレンジ色にしたりピンクを選んだりする(あの頃から、仕事とカンケーないロジックを仕事に密かに適用することが好きだった。バカな私)。
 あまり分厚い書類を突っ込むと、左下角が紙の厚さにぶくっと折れ曲がって白い線がつき、二度と平坦なホルダーに戻れない。こういうB級品は他部署に回すわけにいかないから、しばらく自分用に使って後おさらばする。役員に提出する書類のときは、手元の在庫を全部ひっぱりだしてきて、もっとも傷の少ないつるつるのホルダーを慎重に選び出す。
 庶務さんがそれぞれ自分の趣味で発注するのか、流通するクリアホルダーの色には明らかに偏りがあった。水色やピンクはいくらでも貯まるからどんどん使っていくが、黄色や紫はあまりお目にかからない。そういう珍しい色は使わずにとっておく。
 大企業だったから、部署によって発注先のメーカーがちがうのだろうか、同じグリーンでも微妙にトーンのちがっていたりして、全くの同一色でないものは最低1枚手の途に残すようになった(あくまで仕事とカンケーないことに夢中になっていた。バカな私)。いつしか引き出しのストックは、スキポール空港で見かけた色鉛筆のような美しいグラデーションを描くようになった。それを見るたび、幸せな気持ちになった(んなことじゃなくて、やりがいのある仕事にシアワセを感じろ、と言いたい)。

 会社を辞める時、新卒で配属された部署からもらった「文房具セット」の中にあったオレンジ色のホチキス(もらったその日に、小学1年生よろしくアルファベットで苗字を書いたシールを貼って、以来部署を変わってもずっと持ち歩いた。今でも自宅にある)や色とりどりのファイル見出し用色シール(これも全色集めてシアワセだったなあ)とともに、グラデーションクリアホルダー一式を自発的お餞別として頂戴してきてしまった。業務上横領、ですか? でも、時効ですよね。。。

 転職した先の会社では、クリアホルダーはタダの消耗品に貶められていた。というより、時代がそのように変わってきていたのだろうか。今やカラフルグッズとしての地位を追われ、味も素っ気もない半透明一色のクリアホルダーが文房具キャビネットに大量に保管され、次々とまっさらなやつが拠出されていくのである。ホルダーが最も活躍するのは外部の取引先への書類送付、という環境だったから、使い古しのホルダーを使うわけにはいかない。
 しかし、社外向けだけではない。十数名しかいない社内では書類をいちいちホルダーに入れる必要性は低く、入れるときは中古品活用でしょう、と思うのはコスト意識の発達したメーカー出身の私だけで、他のメンバーは社内用にもバンバン新品を使う。社長宛ならともかく、私には使い古しのでいいからね、と何度部下に言っても(万年黒字の裕福な会社で1円単位の節約してどうする、という気がしないでもなかったが、私は根っからのビンボー性なのだ)、年長者を敬う躾の行き届いた彼等は私にぴかぴかのクリアホルダーをよこしてきた。嗚呼、モッタイナイ。
                                                   ・・・(下)に続く
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by miltlumi | 2013-05-07 21:52 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)

花を挿す

 先頃、アウンサンスーチー氏が27年ぶりに来日し、その姿が何度もTVや新聞で報道された。政治経済に疎い私にとって一番印象深かったのは、彼女がいつも髪に花を挿していたことだった。思い返せば、ミャンマーでの映像でも、常に耳の後ろには蘭や薔薇が挿されていた。華やかな、でも決して派手でないパステルカラーの花々。あれは自然あふれる南国ならではの演出だと思っていたが、この大東京でも、彼女は同じように花を挿していた。

 折しも、たまたま読んでいた吉本隆明の「西行論」の中で、万葉集の時代のこんな歌に出会った。

  おとめらの挿頭(かざし)のために 遊士(みやびを)の 蘰のためと 敷きませる
  国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに

 吉本氏によれば、この時代には娘や若い男たちが桜の花を頭に挿して飾る風習があった。それは、単なる装飾というより花の呪力にあやかるためであり、この歌は、そうした信仰の習俗が国という公の場でも行われていたことを暗示しているという。相聞歌でありながら、私的な意味を越えた風習をうたっているのだ。

 女性ならまだしも、男性が頭に花を飾るなんて。そう思ったのは、今年の初めバリを2回目に訪れたとき。フロントやベルキャプテンのホテルマンたちが皆、耳にハイビスカスやプルメリアの花を挿していた。王族が所有するというホテルの広大な自然の庭園のそこここにしつらえられたヒンドゥー教の石の置物や、複雑な彫刻を施した石の壁の窪みにも、真っ赤な、あるいは真っ黄色のハイビスカスが毎朝あらたに供えられていた。
 観光客向けのパフォーマンスか、とも思いかけた。が、滞在最後の朝に、普通の住民男性たちが耳に花を挿したまま、笹や棕櫚の葉でお祭りの飾り物を黙々と作っている光景に出会い、この地ではいかに宗教が日常生活と一体化しているか、そしてその宗教の中にいかに自然がとけ込んでいるかを痛感したのだ。

 ミャンマーは仏教国だが、ヒンドゥー教においては仏教はそのバリエーションに過ぎないとみなされている。東南アジアで今も息づく花の呪力への信仰の風習を、アウンサンスーチー氏がそのまま日本に持ち込んだ。
イギリスで教育を受け、日米欧の官学で活躍し、いまやアジア最後のフロンティアと呼ばれるミャンマーでの政治闘争にしたたかな戦略で臨んでいるというスーパーウーマンが、なお静謐なイメージを失わないのは花の呪力のおかげだろうか。

 もう何十年も前のちょうどこの季節、水を張る前の乾いた田んぼに座り込んで、よくれんげ草やしろつめくさの花輪を編んで王冠代わりに頭に乗せて遊んだ。つくしんぼを赤いバスケットいっぱいに摘んで、母に甘辛く煮てもらった。
 今、髪に花を挿して恵比寿あたりを歩いたら、ケッコン式の披露宴か仮装パーティに出席するのかと思われるのがオチだろう。ならばせめて自宅に花を飾ろうか。花を買うのはお客様の歓迎のため、と決めていたが、
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by miltlumi | 2013-05-03 21:23 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)