人気ブログランキング |

<   2011年 12月 ( 15 )   > この月の画像一覧

冬景色

刈り取りあとの田んぼでわらを焼く煙がたなびく。なつかしい香り。
手前には枯れ残ったすすき、右手遠くには小さく富士山。
大晦日いちにち前の夕暮れ、里山の風景。
a0165235_14502946.jpg

by miltlumi | 2011-12-31 14:55 | フォトアルバム | Comments(0)

本をめぐる雑念

 しばらく前から、読む本は基本的に図書館で借りることにしている。本屋さんにふらりと足を踏み入れて目についた本を手当たり次第に(かつ自分の趣味に厳正に)購入することを無上の喜びとする殿方(この手の趣味をもつ人は、圧倒的に男性である)には白い眼で見られそうだが、自宅に本を増やさないための、これが最良の策である(今、私を白い眼で見た人の書斎は、奥さんから白い眼で見られているに違いない)。
 読み終わってまた読みたいと思った本、あるいは読んでいる途中で「これは」と思った本だけを、Amazonで注文する。そうやって1年間に増える本は、意外にわずかである。だから年末の大掃除のメニューには、「本の整理」は入っていない。

 ベッドの下部に引き出しが3つついていて、そのうちの1つは枕元に置いたテーブルにしっかりふさがれ、「開かずの引き出し」になっている。そこにぎっしり文庫本を入れていることは知っている。しかし何の本を入れているかとんと忘れていて、この機会に、ふと開けてみた。大掃除の一環ではなく、単に見てみたかったから。

 最初に目についたのは、「これまでに読んだ中でめちゃくちゃ好きな本」のトップ3に入るであろう、アガサ・クリスティーの「春にして君を離れ」。母に貸したきり返ってきていないとばかり思っていたのに。クリスティーシリーズをまとめて入れているわけでもなく。そもそもあれほど好きなのに、どうして「開かずの引き出し」に入れていたのか。自分の思考回路に、ちょっと心細くなる。
 それ以外は、高校のときに親友と夢中になって読んでいた赤江漠。洋物ばかり読んでいた父が、私の書棚から勝手に取り出して、「なかなか面白いな」と評価してくれた。文庫本化されたものは、ほとんど持っているはずである。
 こうして一人の作家を徹底的に深堀りしたのは、彼と村上春樹くらいだ。江国香織や吉本ばななや小川洋子も買い揃えているほうだが、作品によっては「ちょっとちがうな」と感じて、図書館どまりのものも少なくない。

 遠いところに住んでいた、本の趣味が似ている友達と、たまに会っては「最近面白い本、読んだ?」と尋ねあうのを楽しみにしていた時期がある。教えてあげた本の続編がだんだんつまらなくなってきて、ちょっと裏切られたような、彼に申し訳ないような思いをした。

 最近は、本選びはすごく慎重になってきている。本屋さんにずらり並んだ「ベストセラー」は一応手に取っても、買うことはおろか図書館で予約することもほとんどない。  
 以前に比べれば、時間はあり余るほどあるのに。無駄な時間を使いたくないのか。失敗をしたくないのか。あるいは私の嗜好が、世の中が面白いと思う基準からずれてきてしまったのか。面白い本が、読みたい。


by miltlumi | 2011-12-30 10:35 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)

今年最後の忘年会

今年もお世話になりました。
来年もまたよろしくお願いいたします。
よいお年をお迎えください。
お決まりの挨拶が交わされて、皆と別れる。

今年最後に会う人が誰かっていうのは、
私の中では、ちょっと大切なことなんだけど。

去年はよかったな、と思う。

新しい年、最初に会う人も、やっぱり少し考えてしまう。

そして、本当の本当に、今年最後に会う人も来年最初に会う人も、
実は同じであることに気づいて、くすりと笑ってしまう。

つまるところ、それは母親なのだ。
by miltlumi | 2011-12-29 18:43 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)

大掃除の邪魔をするもの

大掃除シーズンのこの時期、
しばらく開けていなかった紙(つまり手紙や旅先のしおりなど)が入った引き出しや、
アクセサリー類が並んだトレイを、改めて眺めてみる。

どうしても捨てられなかったものが、
不意に、感慨のかけらもなく、冷徹に、さっと捨てられることがある。
あれほど逡巡していた自分が、まぎれもなく自分であったことさえ、
なんだか信じられない。

そういうとき、過ぎ去った時間の長さというものを、痛いくらいに感じる。

もういらないけれど、捨てるのはちょっともったいない、
そう思って手にした物を、ある友人が「好きだわ」と言っていたことを思い出して、
形見として彼女にあげようか、と思う。
そして、ちょっとまだ早いけどね、と思い直す。
実は、そうやって捨てずにおいてある物が、これ以外にもいくつかある。

そういうとき、来るべき時間の短さというものに、ぼんやりと思いを馳せる。

明日は食器棚の整理をしようと思っているけれど、
つまらないことの記憶力が、哀しいくらい良い私は、
角皿を手にしては、それを買ったときの光景を、まざまざと思い出してしまうのだろう。
そのくせ、つい一昨日使ったときのことは、なんだかぼんやりと遠く感じてしまうのだろう。

そういうとき、今という時間のあやうさに、少ししーんとした気持ちになる。

というわけで、大掃除はあまりはかどらない。
by miltlumi | 2011-12-27 23:31 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)

遅ればせながら、Merry Christmas!!

a0165235_21194969.jpg

a0165235_2120882.jpg

by miltlumi | 2011-12-25 21:21 | フォトアルバム | Comments(0)

五才(いつつ)の頃

 去年12月と今、自分が一番変わったことは何だろう。ふと自問してみたら、即座に思い浮かんだのは、「髪型」…。仕事が増えて忙しくなったとかハーフマラソンが走れるようになったとか、もう少し大人っぽい答えをできないものか、我ながら情けない。でもまあ、つい先日「効率」を度外視して出直した美容院が、「変わったこと」を再認識した一番記憶に新しい出来事だったわけだから。
 振り返ってみれば、ここ10年以上多少の長さの変化はあれ、髪型の基本形はずっと同じだった。それが、8月の「魔がさす」事件のおかげで大胆チェンジ。さすがにこのまま新年を迎えるのはいかがなものかと、それ以来初めての美容院。

 久しぶりに会った馴染の美容師さんとおしゃべりしながら、それでもこの髪型は実は26才のときと同じだと思い出した。「クリスマスケーキ」という言葉が、ケッコン前の娘にとって脅威(最近の若者向けに、念のため解説すると、その心は「25過ぎたら売れ残り」)であったあの当時、ボブスタイルの髪型を、この歳になっても続けるとは思ってもみなかった。
 あと少ししたら真っ当に結婚し(ちゃんと28歳で結婚した)子供を産んで(これは未達成)、「お母さん」らしくちゃんとパーマをかけたショートヘアにすべき、となぜか信じていた。子供みたいなボブスタイルは、それまでのモラトリアム。

 そしてさらに思い出したことには、今の(&26歳の)髪型は、4・5歳の頃と同じ。人間として進歩がないどころか、振り出しに戻っているということか。たかが髪型ごときで大げさな、と言われるかもしれないが、女性にとって、少なくとも私にとって、その時々の髪型というのは、単なる髪型以上に、自分の深層心理が思わず露呈される重要な観察対象なのだ。
 専門家ではないのでただの感覚だが、5歳というのは、幼児期を卒業して自我が生まれ、幼稚園という社会生活の中で対人関係も経験して(でもまだそれに迎合するほど擦れてはいない)、確固たる「素」の自分が形成される時期ではないか。
 会社勤めという、超社会的生活から逸脱してしまい、「素っぴん」でいられる時間が長くなった私が、5歳の髪型に戻ったことは、なにか象徴的である。

中島みゆきの「五才(いつつ)の頃」という歌がある。「宝物はいつも掌の中」という歌詞がとても好きだ。あの頃、私の宝物は「スカーレットちゃん人形」だった。
その点だけは、5歳より少し進歩した。今、宝物は、掌にのらないどころか、目にも見えないかもしれない。
by miltlumi | 2011-12-22 10:57 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)

お誕生日会にまつわるもうひとつの思い出

 ホシノ君は、最初小学3年で同じクラスになったとき、ミズタニ君だった。4年生になってしばらくして、ある日突然ホシノ君になったのだ。担任のヒロイ先生が、朝礼のときにものものしく通達した記憶もなければ、友達の間で「名前変わったんだって」というこそこそ話が休み時間にさざ波のように広がった記憶もない。その辺のことが全く欠落しているのはどういうわけだろう。
 ともかく、池に小石を投げ入れたくらいの波紋も(少なくとも私の記憶では)なく、気づいたら私達はホシノ君と机を並べていた。

 その夏、ホシノ君のお誕生日会にお呼ばれした。ホシノ君の家は、当時は当たり前だった木造平屋建ての長屋、今風に言えば「2K」。6畳間にめいっぱい並べたちゃぶ台の上の豪華なご馳走やお菓子に、正直私は圧倒された。横には、なぜかホシノ君よりも嬉しそうなお母さんはもちろん、お父さんやお姉さんも勢揃いしていた。
 食後、外に飛び出した私たちの中でひときわ活発な一団は、裸足になって近くの小川にざぶざぶ入っていった(私は見物側だったと思う)。小川班が裸足のまま戻って、庭先の水道でお父さんに順ぐりに足を洗ってもらっていたとき、品行方正なアキコちゃんが元気よく「おじいさん、ありがとう!」と挨拶した。
 えっっ。言われてみれば確かに、お父さんと思っていた人は、半分白髪だし顔も日焼けしてしわが深い。そして、おそらく両親の一番近くにいたのだろう。私の耳が「まあ、じいさんに見えても仕方ないか」というお父さんの苦笑交じりのつぶやきをとらえただけでなく、お母さんの顔に浮かんだ、すまなさそうな、曖昧な微笑み(それはアキコちゃんにではなく、明らかにお父さんに向けられていた)を目撃してしまったのだ。

 ああ、そうだったのか。ミズタニ君がホシノ君になったいきさつを、私はいきなり全て理解した。何年も前に離婚してミズタニの旧姓に戻っていた母が、去年、歳の離れたホシノ氏と再婚した。家族4人になって初めての息子のお誕生日会。お父さんもお母さんも総出で、小さな部屋に所狭しと並べたお誕生日会のしつらえ。

 「お誕生日会の思い出」のエントリーをUPした後、小学生の親である友人から、最近の公立では小学校から「お誕生日会差し控え」指導が来る、と聞いた。誰が呼ばれた呼ばれないのトラブル回避や、呼ばれてもプレゼントが買えない子への配慮らしい。
 子供のいない私は、このあたりの最近の社会情勢には全く疎い。けれど一つ言えるのは、少なくとも私は、ホシノ君のお誕生日会を、これほど鮮やかに憶えている。いつもの学校とはちがう、プライベート空間で出会う友達とその家族。色んな人がいる、という実感。そんな機会から隔離された子供達は、いつどこで何を学ぶのだろう。
by miltlumi | 2011-12-20 12:01 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)

決断を迫られる瞬間

 一昨日友達と、日常生活で無限に遭遇する「決断を迫られる瞬間」の話で盛り上がった。よほど重大な役職に就いている、わけではない。その決断とは、寝る前に玄関に落ちている夕刊を今拾うか明朝朝刊と一緒にとるか、洗濯物をたたむのと食器の後片付けどちらを先にするか、家に帰ったらまずコートを脱ぐか手洗いが先か…等々、極めて些末な、けれども我々にとっては非常にストレスフルな事象について、なのである。ヒマ人と言われればそれまで(彼女も私も自由業である)だが、人生真面目に取り組むと、大変なのだ。

 話を掘り下げていくと、それぞれ違うモチベーションが働いていることが明らかになった。すなわち、彼女は「物事には全て正しい答えがある」、私の場合は「効率よく動かねばならない」という価値観(強迫観念、というべきかもしれない)が根底にある。
 しかし、「正しい」という方がまだましだろう。そこには効率のみならず物事の質的プライオリティーや正義感など、複合的な要素がからむ(だから彼女は、「本当に正しい判断をしようとすると、新聞拾うか否か考えるのに2・3時間はすぐたってしまう」という)。私の標榜する「効率」は、いかにもさもしい。
 
 ちょっとまずいよね、と思っていたら、昨日の日経夕刊で藤原正彦氏(「国家の品格」の筆者)が「効率重視で、世界を経済だけのために設計すれば、地球は意味のないただの星になってしまう」と述べておられた。げげ、あまりにタイムリーかつ適切なご指摘。
 実際私は、タンスが置いてある玄関脇でコートを脱ぎ、リビングに入る途中の洗面所に化粧ポーチを置いてからテーブルに郵便物を置く、という最短の動線で物事を片付けた結果発生した余暇を、より生産的活動に充てるわけではない。その分単に、ぼおお~っとする時間が増えるだけなのである。なんという意味のなさ。

 そして今日、渋谷で10:00~14:00と16:30~21:00の二部構成の仕事があった。間の2時間半、すかさず表参道の美容院に予約をいれた。通常ならシャンプー・カットで1時間。すごい効率的。ところが、クリスマス前の店は大混雑。10分悩んだ末、美容師を急かして時間ぎりぎりに仕事に戻ることの効率の良さを捨て、ゆったりと髪を整えてもらうべく、明日出直す英断を下した。
 ぽっかり空いた1時間余り。人混みの青山通りに冬の西陽が眩しい。そうだ、渋谷まで歩こう。宮益坂下で右か左か迷ったとき、またぞろ「効率」が鎌首をもたげ、近道の左を選んでしまった(時間はたっぷりあるのに)。でもそこは、欅が落葉した宮益坂と違い、散る間際の銀杏並木が、高層ビル越しの西陽を惜しむように煌めいていた。
 手前と向こう、どちらの歩道橋を渡るかの決断を迫られたとき、手前を選んだのは、今度は「効率」ではなく「銀杏が綺麗に見渡せる」という理由。
 ほんの少し、美しい地球の意味を感じることができた夕暮れだった。
a0165235_22491794.jpg

by miltlumi | 2011-12-18 22:50 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)

お誕生日会の思い出

 毎週日曜日の朝、「今週誕生日を迎える友達がX人います」というメールがFacebookからくる。‏へえ、この人も射手座なんだ、ちょっと、「年」も白状しなさいよ、等々、トーストをかじりながら一人ごちている。が、肝心のその日に絶対Facebook経由でメッセージを送れるかというと、そう簡単にはいかず、気づくと日付が変わっていて失礼をすることが多い。

 小学校の時、お誕生日会というものがあった。4月生まれの私は、クラス替えの直後で招待客選定が難しかったが、1・2年、3・4年、5・6年が同じクラスだったから、偶数の学年はリストもばっちり。誕生日1ヶ月くらい前になると、招かない友達に気を遣いつつ、リストに載った10人くらいの友達に一人ずつこっそりと声をかける。「X月X日、私の誕生日だからさ…」いわば、ドキドキの自己申告である。
 招かれる側でも、ドキドキは同じこと。日頃それほど一緒に遊んでいない友達から招かれたときは、びっくりして「どうして私?」と訊いてしまった。「○○さんが来たら面白いかと思って」 その頃から漫才キャラだったのだろうか。

 当日までの大切な仕事は、プレゼント選びである。お小遣いは月額300円か500円。貯めてあるお年玉も加えた貴重な原資と相談しながら、買いに走る定番のお店は、中学校の裏にある、その名も「ウラモン」という文房具屋さんだった。
 ジャポニカ学習帳やユニの鉛筆が、昔の新潮文庫のようなちょっとお線香っぽい香りを醸し出していた。ガラスのショーウィンドーには、雨だとピンク・晴れだとになるしゃらしゃらした手触りのブタの貯金箱や、木目調のシンプルな鉛筆立てが並んでいた。散々悩んで慎重に選んで、リボンをかけてもらう瞬間は最高だった。

 そんなささやかな、でも思い切り気持ちのこもったプレゼントを5個も10個ももらえる贅沢なお誕生日会がなくなって、もう久しい。
 そもそも、あの頃のように自分から誕生日を人に伝えるなんて、照れるし物欲しげだし「で、今年何歳?」と突っ込まれそうだし、ない、ないない。お互いの距離が縮まらないと、言えないし聞けない。誕生日がいつかを知っている人は、小学校の友達みたいな、気の置けない特別な存在である。

 さりげなく事前に知らせてくれるFacebook機能は、誕生日を自己開示できなくなったシャイな大人たちへの、しゃれたサポートか。生身の第三者から知らされるのは居心地悪いが、あれは自動送信だから、軽い気持ちで「おめでとう」を贈れる。
 翌年からは、「おめでとう」を言いたい相手の誕生日は、たとえ地球の裏側にいても忘れない。
by miltlumi | 2011-12-15 14:52 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)

プラチナ通り 銀杏並木

真っ青な空をよそに、朝からずっとPCにかじりついて仕事をしていた。
自分でたてた目標より1時間早く終わって、さてどうしようかと思って、
明日の天気予報が曇りであることを確かめると、急いでカメラを持って自転車にまたがった。
いつもより遅い黄葉。夕方の光に輝いて。
a0165235_2311619.jpg
a0165235_23104863.jpg
a0165235_23103191.jpg

by miltlumi | 2011-12-13 23:15 | フォトアルバム | Comments(0)