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カテゴリ:みるとるみ版・映画評( 6 )

女王陛下のお気に入り

 なんか面白そう、と思って見に行った映画。鑑賞した直後の一言感想をインタビューされたら、きっと「げっそりしました」と答えていただろう。
 「権力闘争」「権謀術数」といった四文字熟語は、男性の専売特許だと思っていたのに。
 デコルテを強調したドレスに身を包んだ女性たちが、ごてごてと飾り立てられた宮廷の中をふうわり広がる裾を翻して行きつ戻りつ、男性顔負けの抗争を繰り広げる。
  オンナって、こんなに権力に固執する動物だったっけ? しかも、権力闘争の戦術が、これまた男性的というか。。。

 18世紀初頭イギリス、アン女王と側近の女官、サラとアビゲイルの物語である。この3人を初め、登場するのはいずれも実在の人物のようだが、映画の筋がどこまで真実だったかはわからない。しかし、アビゲイルの宮廷入りやサラの失脚、フランスとの戦争終結のタイミングは史実だ。「最高権力者の寵愛」を勝ち得るべく、側近二人が熾烈な争いを繰り広げるという映画製作者が設定した筋書きは、当たらずとも遠からず、…だったのだろうか。

 女友だちにあらすじを尋ねられ、「オトコみたいに権力闘争してた」と答えたら、「何のために?」と畳みかけられた。これぞ、オンナの発想である。
 男性が権力闘争をするのは、権力を掌握するためである。権力を掌握するのは、掌握したいからである。男性にとって、「権力」そのものが目的なのだ。
 一方、権力闘争と聞いて「何のために?」と尋ねる女性は、権力を握ることによって、もっと別の目的を達成しようとしているに違いない、と反射的に考えるのだ。

 アビゲイルの場合は、「やんごとない生まれなのに、父親の没落でどこぞの貴族に売り飛ばされた雪辱を果たすため、再び貴族の地位に返り咲く」のが目的である。
 ではサラは? フランスとの戦争継続を強行して、夫に戦功をもたらし、さらなる権力を握りたかっただけか?
 そして、二人の争いの上に君臨していたアン女王の「目的」は? そもそも政治にも戦争にも興味がない。17回も妊娠したのに、いずれも死産や夭折で世継ぎを一人も残せなかった。なのに権力目当ての側近に心を赦してしまう、その理由は?

 別の女ともだちが、今日のニッポンの会社を評して、いみじくもこう言っていた。
「権力の座に10年も居座ったら、ダメなのよ。自分がエラいと思っちゃうし、周りも本当のことを言わなくなって、必然的に腐敗する」

アン女王もサラも、結局のところ、そういうことだったのだろうか。権力の魅力の前には、オトコもオンナもカンケーないのだろうか。はぁ~。

 数日もやもやとしていて、不意に気づいた。
 彼女たちが本当に欲しかったのは、権力や名声以外のものだったのではないか。
 アビゲイルが欲しかったのは、貴族に「買われた」立場ではなく、「本当に自分を必要とする人」との関係。
 アン女王が欲しかったのは、血を分けた自分の子供たちに囲まれて過ごすこと。
 そして、サラは、「アン女王」の黒幕として国家に影響力を及ぼしたかったわけではなく、純粋に、幼馴染としての「アン」を支えたかった、それだけなのではないか。

 ん~。ちょっと、美化しすぎかな。
 やっぱり単純に、人間というものは、オトコもオンナも関係なく、権力を掌握したいという本能的欲求を持っているのだろうか。
 けれど、アン女王が画面の端々で見せたあのやるせない表情は、権力だけが全てでないことを雄弁に物語っている。…と思うのだけど。


by miltlumi | 2019-03-16 10:12 | みるとるみ版・映画評 | Comments(0)

女王陛下のお気に入り

 なんか面白そう、と思って見に行った映画。鑑賞した直後の一言感想をインタビューされたら、きっと「げっそりしました」と答えていただろう。
 「権力闘争」「権謀術数」といった四文字熟語は、男性の専売特許だと思っていたのに。
 デコルテを強調したドレスに身を包んだ女性たちが、ごてごてと飾り立てられた宮廷の中をふうわり広がる裾を翻して行きつ戻りつ、男性顔負けの抗争を繰り広げる。
 オンナって、こんなに権力に固執する動物だったっけ?

 18世紀初頭イギリス、アン女王と側近の女官、サラとアビゲイルの物語である。この3人を初め、登場するのはいずれも実在の人物のようだが、映画の筋がどこまで真実だったかはわからない。しかし、アビゲイルの宮廷入りやサラの失脚、フランスとの戦争終結のタイミングは史実だ。「最高権力者の寵愛」を勝ち得るべく、側近二人が熾烈な争いを繰り広げるという映画製作者が設定した筋書きは、当たらずとも遠からず、…だったのだろうか。

 女友だちにあらすじを尋ねられ、「オトコみたいに権力闘争してた」と答えたら、「何のために?」と畳みかけられた。これぞ、オンナの発想である。
 男性が権力闘争をするのは、権力を掌握するためである。権力を掌握するのは、掌握したいからである。男性にとって、「権力」そのものが目的なのだ。
 一方、権力闘争と聞いて「何のために?」と尋ねる女性は、権力を握ることによって、もっと別の目的を達成しようとしているに違いない、と反射的に考えるのだ。

 アビゲイルの場合は、「やんごとない生まれなのに、父親の没落でどこぞの貴族に売り飛ばされた雪辱を果たすため、再び貴族の地位に返り咲く」のが目的である。
 ではサラは? フランスとの戦争継続を強行して、夫に戦功をもたらし、さらなる権力を握りたかっただけか?
 そして、二人の争いの上に君臨していたアン女王の「目的」は? そもそも政治にも戦争にも興味がない。17回も妊娠したのに、いずれも死産や夭折で世継ぎを一人も残せなかった。なのに権力目当ての側近に心を赦してしまう、その理由は?

 別の女ともだちが、今日のニッポンの会社を評して、いみじくもこう言っていた。
「権力の座に10年も居座ったら、ダメなのよ。自分がエラいと思っちゃうし、周りも本当のことを言わなくなって、必然的に腐敗する」

アン女王もサラも、結局のところ、そういうことだったのだろうか。権力の魅力の前には、オトコもオンナもカンケーないのだろうか。はぁ~。

 数日もやもやとしていて、不意に気づいた。
 彼女たちが本当に欲しかったのは、権力や名声以外のものだったのではないか。
 アビゲイルが欲しかったのは、貴族に「買われた」立場ではなく、「本当に自分を必要とする人」との関係。
 アン女王が欲しかったのは、血を分けた自分の子供たちに囲まれて過ごすこと。
 そして、サラは、「アン女王」の黒幕として国家に影響力を及ぼしたかったわけではなく、純粋に、幼馴染としての「アン」を支えたかった、それだけなのではないか。

 ん~。ちょっと、美化しすぎかな。
 やっぱり単純に、人間というものは、オトコもオンナも関係なく、権力を掌握したいという本能的欲求を持っているのだろうか。
 けれど、アン女王が画面の端々で見せたあのやるせない表情は、権力だけが全てでないことを雄弁に物語っている。…と思うのだけど。


by miltlumi | 2019-03-16 10:12 | みるとるみ版・映画評 | Comments(0)

女王陛下のお気に入り

 なんか面白そう、と思って見に行った映画。鑑賞した直後の一言感想をインタビューされたら、きっと「げっそりしました」と答えていただろう。
 「権力闘争」「権謀術数」といった四文字熟語は、男性の専売特許だと思っていたのに。
 デコルテを強調したドレスに身を包んだ女性たちが、ごてごてと飾り立てられた宮廷の中をふうわり広がる裾を翻して行きつ戻りつ、男性顔負けの抗争を繰り広げる。
 オンナって、こんなに権力に固執する動物だったっけ?

 18世紀初頭イギリス、アン女王と側近の女官、サラとアビゲイルの物語である。この3人を初め、登場するのはいずれも実在の人物のようだが、映画の筋がどこまで真実だったかはわからない。しかし、アビゲイルの宮廷入りやサラの失脚、フランスとの戦争終結のタイミングは史実だ。「最高権力者の寵愛」を勝ち得るべく、側近二人が熾烈な争いを繰り広げるという映画製作者が設定した筋書きは、当たらずとも遠からず、…だったのだろうか。

 女友だちにあらすじを尋ねられ、「オトコみたいに権力闘争してた」と答えたら、「何のために?」と畳みかけられた。これぞ、オンナの発想である。
 男性が権力闘争をするのは、権力を掌握するためである。権力を掌握するのは、掌握したいからである。男性にとって、「権力」そのものが目的なのだ。
 一方、権力闘争と聞いて「何のために?」と尋ねる女性は、権力を握ることによって、もっと別の目的を達成しようとしているに違いない、と反射的に考えるのだ。

 アビゲイルの場合は、「やんごとない生まれなのに、父親の没落でどこぞの貴族に売り飛ばされた雪辱を果たすため、再び貴族の地位に返り咲く」のが目的である。
 ではサラは? フランスとの戦争継続を強行して、夫に戦功をもたらし、さらなる権力を握りたかっただけか?
 そして、二人の争いの上に君臨していたアン女王の「目的」は? そもそも政治にも戦争にも興味がない。17回も妊娠したのに、いずれも死産や夭折で世継ぎを一人も残せなかった。なのに権力目当ての側近に心を赦してしまう、その理由は?

 別の女ともだちが、今日のニッポンの会社を評して、いみじくもこう言っていた。
「権力の座に10年も居座ったら、ダメなのよ。自分がエラいと思っちゃうし、周りも本当のことを言わなくなって、必然的に腐敗する」

アン女王もサラも、結局のところ、そういうことだったのだろうか。権力の魅力の前には、オトコもオンナもカンケーないのだろうか。はぁ~。

 数日もやもやとしていて、不意に気づいた。
 彼女たちが本当に欲しかったのは、権力や名声以外のものだったのではないか。
 アビゲイルが欲しかったのは、貴族に「買われた」立場ではなく、「本当に自分を必要とする人」との関係。
 アン女王が欲しかったのは、血を分けた自分の子供たちに囲まれて過ごすこと。
 そして、サラは、「アン女王」の黒幕として国家に影響力を及ぼしたかったわけではなく、純粋に、幼馴染としての「アン」を支えたかった、それだけなのではないか。

 ん~。ちょっと、美化しすぎかな。
 やっぱり単純に、人間というものは、オトコもオンナも関係なく、権力を掌握したいという本能的欲求を持っているのだろうか。
 けれど、アン女王が画面の端々で見せたあのやるせない表情は、権力だけが全てでないことを雄弁に物語っている。…と思うのだけど。


by miltlumi | 2019-03-16 10:12 | みるとるみ版・映画評 | Comments(0)

ジュリエッター映画を観るときの想像力

スペイン領カナリア諸島を旅したことがある。昔からその名を冠した大瀧詠一の歌が好きだったというのもあるが、決め手は購読していた雑誌に載っていた、デザイナーズホテルのポップな色合いのインテリアだった。チェックインした部屋は、私がベージュ、ロンドンに住む友人がイエロー基調で、ロビーには赤やグリーンのソファが心地よい感覚で配置されていた。
 
 そんなことを思い出したのは、この映画の画面の色使いのせいだ。
 冒頭のっけ、突然の心変わりを告げられて戸惑い、怒る男性の背景に、グレイと赤に二分された壁。訳は話したくない、とうつむくジュリエッタは、白い壁に消え入りそうになる。色による心理描写は珍しくないが、女性の一人暮らしのアパートで赤い壁、というのは、スペインならでは。普通の日本人の感覚ではない。
 回想シーンでは、地中海のような真っ青なセーターと青いタイツをまとったジュリエッタが、見知らぬ男性に抱かれる。鮮やかすぎる色に目が釘付けになるが、あとであれは相手の男性の住む(そしてやがて彼を飲み込んでしまった)場所を示唆していたのかも、と思い当たる。
 色彩の魔術を確信したのは、突然姿を消した娘の誕生日を祝うためのバースデーケーキだ。キャンドルを吹き消す主人公のいない1年目は赤いケーキ。カシスだろうか、あえて自分を鼓舞するような明るい色。二十歳のケーキはグリーン。ケーキを彩る色としては、日本人には思いつかない代物だけれど、緑という色そのものは、心の平穏や愛情を表す。そしてオーソドックスなチョコレートの茶色いケーキを最後に、ジュリエッタは孤独なお祝いの行事を取り止める。
 
 こんなふうに考え始めたら、1シーン1シーンの色のすべてに意味があるのではないかと思い巡らし、肝心のストーリーに気が回らなくなりそうだが、決してそうはならない。カトリックの国ならではの「原罪」を示唆するあの事件、この事件。唐突に挿入されるTVニュースが伝えるのが「のぞみ」という名前の日本の火星探査機であることも、これまた示唆的である。
 
 最初から最後までノンストップで連れて行かれる映画より、自分のペースでじっくり進むことのできる本のほうが好きだ。だから、映画を観る回数はとても少ない。その分、映画鑑賞の仕方にまだ慣れていない。
 限られた時間に詰め込まれたいくつものシーンの意味が解き明かされないまま、エンディングロールが始まってしまうことに、いつも戸惑いを覚える。結局想像力を働かせるしかない。もしかすると、そういう意味深長な映画ばかりを自ら選んでいるのかもしれない。
 ちなみに、ジュリエッタの原作は、カナダのノーベル文学賞作家、アリス・マンローの短編である。彼女の文章に、赤や緑の原色が出てきたとは思えないし、第一、あの海が地中海なはずはない。そういう意味では、映画自体がすでに監督の想像力の産物であり、そこから発した私のカナリア諸島の連想は、さらにマンローから離れてしまっているにちがいない。
 カナディアン女性が企図したのはどんなものだったのか、やはり書物に戻ってみようと思う。

<カナリア諸島のホテル、イエローの客室>



by miltlumi | 2016-11-14 12:51 | みるとるみ版・映画評 | Comments(0)

正しい選択をすること

 映画館で映画を見るときの最大の欠点は、思い切り泣けないことだ。しかも今回の観客はちょっとやそっとでは心を動かされない強者揃いなのか、ここは泣くしかないでしょ、という極めつけの場面でも、ハンカチを探る音も鼻を啜る音も聞こえて来ない。仕方なく、流れ出るものをティッシュで堰き止め、マスカラが落ちないように慎重に押さえる。
 ラスト10分くらいは、もう怒涛の感動。いつもならエレベーターが混むのを避けてクレジットが流れ出す前に席を立つのが、そのままぼぉっと座ったまま。劇場から出たあとも、広場のベンチでしばし余韻に浸ってしまった。
 一夜明けて、ようやく公式サイトにアクセスして(映画を観に行く前に見ないようにしているのだ)この映画の感動ポイントをおさらいしてみて、初めて自分自身の視点がどこにあったのか、に気づいた。

 一言で言ってしまえば、「選択」の物語である。トニーかジムか。故郷か新天地か。あるいは将来を保証された裕福な安定か荒野を切り拓くリスクテイクか。いずれかの選択を選んだ明らかな理由、というよりは自分の背中を押した決定的なきっかけ、後ろ髪を引っ張ろうとする良心、が鮮やかに描かれている。
 でも何よりも、私の涙腺があれほど緩んだ理由は、選択そのものではなく、選択をしたあとのエイリシュの態度にあった。

 港を離れた船上。彼女の胸の内には、これでよかったんだろうか、という迷いがおそらくまだたち込めていたにちがいない。だから、10ヶ月前の自分と同じような、自信なさげな女性に対して、最初は心ここにあらず、とばかり素っ気ない態度をとる。
 でも、「ブルックリン」という地名を聞いたとき、エイリシュの心が、切り替わる。半年前、ブロンドに真っ赤な口紅の女性から自分が教えてもらったこと、船上での、そして入国審査場での振る舞い方を、後輩女性に伝える。さらに、この数カ月で身を以て体験したことから自ら導き出した、出来立てのほやほやの人生アドバイスを加えて。
 そうすることで、自分自身が下した選択の正しさを、改めて自分自身に納得させたのだ。

 あらかじめ100%の確信を持って決断できる選択など、ない。選択をしたあとで、それを口に出して人に伝え、自分で自分に言い聞かせることで、自分の中にようやく自信が芽生える。その自信を慈しみ、育むことで、選択は「正しい選択」に成長する。
 ブロンド女性からエイリシュへ。エイリシュから後輩女性へ。新大陸で生きる知恵と、凛々しい化粧と、そして毅然とした微笑みが、バトンのように、渡されていく。
 そこに自分の姿が重なって、場違いなくらいの感動が押し寄せた。

 今、ビジネスの世界で頑張る後輩女性たちを応援する仕事をしている。自分が下してきた選択とその理由を経験談として語りながら、偉そうなこと言っちゃって、という心の声が自分の中から聞こえてくる。
 でもきっと、それはそれでいいのかもしれない。120%の確信がなくても、エイリシュを見習って、毅然と頷いてみれば、相手を励まし、自分を励ますことができるかもしれない。


by miltlumi | 2016-07-18 11:58 | みるとるみ版・映画評 | Comments(0)

数ミリの視線

 ヤクザ映画を見た後は、劇場から出てきたオッサンの目つきがソレっぽい、という話をよく聞く。へーえ、そんな単純なもんですかねー、と不可思議に思っていたのだが、ついに私もその境地に達することができた。
 あいにく、ヤクザ映画ではない。生粋の恋愛映画。しかも女性同士の。ただいま絶賛上映中の「キャロル」。

 崩壊しつつある結婚を娘のためにどうにか保っているキャロル(ケイト・ブランシェット)と、デパートのおもちゃ売り場で働きながらカメラマンを目指すテレーズ(ルーニー・マーラ)。
 日経夕刊の映画評で5つ星だったので、ぜひ見ようと思いながら、あらすじをすっかり忘れていた。憶えていたのは「地味めながら凝った衣装に注目」という点だけ。
 最初にスクリーンに登場したキャロルがまとったふうわりとした毛皮のコートに、まず釘づけになり、1950年代のクラシックで一分の隙のないカールの髪型からも目が離せない。そして何よりその凄みのあるグレイの瞳。生活環境の違い過ぎる平民テレーズと、同年代かと見まごうばかりの美しさである。
 ところで、この映画、どんなストーリーなんだっけ。

 話が進むに従って、
 「え、もしかして」
 「あ、やっぱり」
 「お、ついに」
 「う、そうきたか」
 という感じの展開。その間すべて、とにかくキャロルが、美しい。
 普通、私は重たい映画が好きで、「至上の愛」とか「生きる意味」とか、哲学的なテーマが織り込まれていないと気が済まない。けれどこの映画は、キャロルとテレーズがなぜどうして愛し合うようになったのかなんて、もうどうでもよくなる。
 途中、そうした私の気持ちを代弁するかのように、脇役のライターお兄さんがテレーズに語りかける。
 「愛に理由はいらない。好きかどうか、惹かれあうかどうか、ただそれだけさ」
 そーだそーだ。一目惚れ、バンザイ。

 で、私をヤクザ映画のオッサンにしてしまった圧巻のシーンは、最後の最後。ディナーテーブルで回りの男性と談笑していたキャロルが、正面から歩いてくるテレーズに気づいたときの、その目線の揺らぎ。きゃあああ♡♡♡
 
 あの、数ミリだけの視線の動きで、あれだけ多くの無言の言葉を語るとは。並大抵の女性にできるものじゃない。いいなあ。美しいなあ。
クレジットのスクロールの最後までその余韻を楽しんで、すっかり夜の帳が降りた街中に出て行く。あの目線を再現しようと、ついつい慣れない流し目をしてしまう。その先には、宝塚劇場から出てきたオバサンの群れ。おっとっと。

 余談であるが、以前男性3名・女性3名で飲んでいて、「地球上に、ものすごーく美しい同性と、ものすごーく不細工な異性の2人しかいなくなったとして、あなたはどちらを選びますか?」という話題になった。
 男女で答えははっきり分かれた。
 女性は、「選択の余地なし。もちろん絶対、美しい同性」。
 男性は、「ありえない。おかちめんこでもいいから、異性」。
 仕方ない。男性には、ケイト・ブランシェットはいないのだから。


by miltlumi | 2016-02-25 21:12 | みるとるみ版・映画評 | Comments(1)