カテゴリ:父の記憶( 15 )

富士山につられた女

 品川から新幹線に乗り、新横浜を超えるとじきに右手前方に富士山が見えてくる。国府津のあたりで大山・丹沢を従えて伸びやかな姿が広がり、それから少しずつ箱根連峰に遮られていく。金時山(と信じているが、さだかではない)からなだらかに伸び上がる箱根の稜線の右肩がだんだんとせり出してきて、小田原駅のすぐ手前で、ついに富士山は見えなくなる。
 私にとって富士山と言えば、長く裾野を引いた優美な姿ではなく、箱根の肩越しにほんのちょこんとあたまだけ出した、あの富士山なのだ。そしてそれは、おそらく母にとっての富士山の原風景と重なる。

 両親は兵庫県の出身である。母は、陸軍将校だった祖父の駐屯地の金沢で生まれたが、小学4年で終戦を迎えて元々の実家の竜野に戻った。父の方の祖父は海軍で、小樽で生まれてからじきに竜野の隣村の觜崎に戻った。
 そのあと父は、京都の大学を出て、小田原に工場のある会社に就職した。新幹線もない時代、夜行で実家に帰って、3月に母とお見合いをして、翌々日にもう一度会って、その足で母の実家に行き、陸軍大佐に頭を下げたらしい。母は、父が次男であることと、関東に住めることが結婚の決め手だったと教えてくれた。
 
 10月の結婚式までの間、二人が顔を合わせたのはたった2回だけ。あとは文通だ。一緒に住む予定の社宅のあたりからは、富士山が見えます、という父からの手紙に、母は期待に大きく胸をふくらませたそうだ。
 ところが、いざ新居に着いてみると、「富士山」のイメージからは程遠く、箱根の山並みごしに見えるのは9合目から先くらいのほんのてっぺんだけ。話がちゃうやん、と思ったが、後の祭りである。

 世間知らずで地図の読めない母と、知ったかぶりで言葉足らずの父は、その後も似たような言った言わない、嘘本当みたいなことを繰り返しながら、金婚式まで持ちこたえた。

 今、一人になった母は、丹沢の麓からもっとずっと大きな富士山を望むことのできる兄の家の隣に住んでいる。
 年に一、二度、兵庫県の山あいにある父のお墓参りに行きたいと言い出す。港区に住む私は、品川から姫路まで、のぞみの直通でも4時間近く。こだまやひかりしか停まらない小田原から乗る母は、ジパング倶楽部の割引を最大限活用するためにのぞみは乗らない。だからいつも姫路駅で現地集合だ。
 姫路から乗り換えた鈍行電車の中で、たいがい私は、行きがけ富士山が見えたとか見えないとか報告する。母は、あんたそんなに富士山珍しいの、私なんか毎日見てるわよ、と可愛くない台詞を吐く。
 60年前にここを発ったときは、日本一の霊峰を毎日拝める新婚生活に胸をときめかせていたくせに。

 今年初めてのお墓参りは、GWの混雑を避けて明日からの予定だったが、天気予報が雨だし体調が悪いから行かない、と母がドタキャンした。
 それならお天気のいいうちに、と予定を3日繰り上げて、一人のぞみにとび乗った。
 春にしては珍しく、富士山がきれいに見えた。そうしてやっぱり、小田原の手前で箱根山に隠れた。


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by miltlumi | 2018-05-06 09:56 | 父の記憶 | Comments(0)

若葉の季節に

 染井吉野は早くも花吹雪だが、入れ替わりに白い蝶々のような花水木が咲き始めた。木蓮や山吹や花蘇芳や雪柳、これからまさに百花繚乱の季節である。
 そうやって、ついつい視線は花木に奪われがちだけれど、葉っぱのほうも新緑の季節に向かって頑張っている。中でも、一足早く新緑、ではない若葉をあでやかに広げる木がある。
 
 ベニカナメ。
 ほとんど人目を引かない、何の変哲もないつるりとした楕円形の葉っぱ。生垣に使われ、どこでもみかける。それが、今の季節だけ、明るいレンガ色を身体じゅうにまとって、薄緑色の新芽の木々を圧倒する。
 この色を目にするとき、必ず小さな声で「ベニカナメ」とつぶやいてしまう。

 中学1年のとき、両親が住宅ローンの頭金を貯めて建てた家の庭は、建物の周りにぐるりと申し訳程度の広さだったが、一段高くなった北隣は同級生のカズミちゃんの家の畑で、すとんと抜けていた。
 大学生の頃だろうか。金網フェンス沿いに、カズミちゃんのお父さんがずらりと木を植えた。いかにも実務的な顔をした常緑樹に、視界が遮られてしまった。
 春先、北側の洗面所の窓の向こう側が、いきなり明るいレンガ色に染まった。ベニカナメだった。
 普段、庭木に何の興味も示さない父が、驚いたように尋ねた。
 「あれは何の木だ?」
 「ベニカナメ」
 父親と話すことが鬱陶しいティーンエイジャーが終わりかけていた私は、にこりともせずに即答した。母に似て、私は木や花が好きだった。

 翌春、同じように窓の外が紅く華やぎ始めると、歯磨きをしながら、また父が聞いた。
 「あの木はなんという名前だったっけな」
 「ベニカナメ」
 同じやりとりが何回続いただろうか。しまいには、その季節になると、私のほうから父に「ベニカナメが芽吹いたね」と話しかけるようになった。
 20代後半には実家を出てしまったから、ベニカナメの名前を毎年確認し合うことはできなくなった。それでもたまにその季節にあたると、「あ、お父さん、ベニカナメ紅くなったね」「おう」といった短い会話を交わしたものだ。

 父は、大工仕事や庭木の剪定などが不得意だった。わが家では、犬小屋を作るのも伸び過ぎた花蘇芳の枝をはらうのも、母の担当だった。たまに兄や私も手伝ったけれど、父はいつも高みの見物だった。
 父の定年退職後、母は「運動がてら金木犀でも剪定してちょうだい」と頼んだことがあったという。すると父は、植木鋏を手に取るどころか、なんと外出着に着替えて出掛けてしまった。電車に乗って書店に行き(実家は、まともな書店もない田舎町にある)、「庭木の剪定」という立派な本を買ってきた。2階の書斎にこもってじっくり読んでいたかと思うと、ぱたぱたと降りてきて、母に告げた。
 「今は剪定時期じゃない。だからダメだ」
 もちろん、剪定に適した季節になっても、父が庭に出ることはなかった。

 今、実家はそのまま置いて、母は兄の家の隣に住んでいる。たまに帰ると、母は「夏椿の枝がうるさいんだけど」などと訴える。私はおもむろに「庭木の剪定」の本を取り出す。「今は剪定時期じゃないよ」と言っては、母と笑い合う。
 ベニカナメは、実家の裏で、今年もあでやかに照り輝いている頃だろう。
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by miltlumi | 2018-04-01 21:57 | 父の記憶 | Comments(0)

赤いトースター

 ここしばらく、オーブントースターを買い替えよう買い替えようと思いながら、決断できずにいる。35年(!)も使っているせいで、右より左の電熱が弱くなり、途中でパンをひっくり返さねばならない。さっさと楽天で注文すればいいのだが。
 バルミューダに大枚はたくことに二の足を踏んでいるわけではない。最初からあれほどの機能は求めていない。それより大切なのは、コンパクトさ(今のスペースにぴったり納まること)と色(キッチンのテーマカラーは赤)。
 この条件にあてはまる商品、実はないことはない。「今ならポイント6倍!」という謳い文句もあれば、つい注文ボタンを押しそうになるのだが、最後の最後に押し留まる。
 
 なぜか。答えは明らか。今のトースターに愛着があるから。焼きムラこそあれ、ほんの3秒余計に手間をかければ済むことだし、半年に1度は磨いてピカピカだ。
 私と一緒にトロントに赴任したし、それから新婚の借り上げ住宅のキッチンにも置かれ、新築したマイホームでも活躍し、そしてシングルアゲインのこのマンションに共にやってきた。大切な戦友。
 さらに元を辿れば、このトースターは、父が買ったものなのだ。

 35年前、父はサラリーマン人生最初で最後の単身赴任をした。神奈川県の西端の工場から港区にある本社に異動し、桜新町の独身寮に住むことになったのだ。
 昔から朝食はシンプルにコーヒーとトーストだったから、父はさっさとトースターを買い込んだ。コーヒーメーカーは誰かからもらったらしい。
 さすがに夕飯は、寮のまかないを利用した。「定時に食堂で食うやつはほとんどいないんだ」という父の言葉に、母は眉を曇らせた。その横で私は、だだっ広い食堂とトレイに乗ったプラスチック食器とぽつねんとした父を想像し、胸がちくりと痛んだ。

 そもそもあの単身赴任は、父がトップを務める事業部が会社の戦略変更で廃部となり、とりあえず開発部門に身を寄せることになったせいだった。
 折しも私が大学に入学したその年の夏、父は「勝負の年や」と言いながら事業計画を練り直していた。10月、何度目かの経営会議で結論が出た。そういう経緯の意味が分かるくらいには、私も「社会」というものを理解し始めていた。

 今、父が遺した「回想録」のページと、自分のダイアリーを見比べてみる。11月、2週間にわたる秘密裏の事業撤収計画会議で基本方針を固め、20日に父が部下たちに説明を行って配転先希望を聞くことを約している。
 まさにその翌日が、大学の学園祭だった。父と母が揃って、私が主役を演じるアガサ・クリスティの演劇を見に来てくれた。父が私の学校行事に足を向けたのは、小学2年の学芸会で「みにくいアヒルの子」を演じて以来ではなかったかと思う。
 余談だが、独身寮に持参したコーヒーメーカーが部下たちからのお餞別だったことを、回想録を読んで初めて知った。
 ついでに数えたら、それをもらったときの父は、今の自分と全く同じ年齢。

 結局、単身赴任は1年余りで終止符を打ち、父は古巣の工場の近くにあるR&Dセンターに戻った。それから定年まで、自分の知識と経験を活かせる技術標準化業務に携わり、世界中を出張しまくって結構楽しげに過ごしていた。私と赤いトースターのいるトロントにも、一度出張ついでに訪ねてきた。

 こうやって、トースターは次々思い出をポップアップさせる。やっぱり、壊れてどうしようもなくなるまで、買い替えることはできそうにない。


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by miltlumi | 2017-02-20 12:22 | 父の記憶 | Comments(0)

新聞の切り抜き

 普段スマホを持ち歩かない(データ専用のは最近ようやく購入したが、外出先でどうしてもメールチェックが必要なときかPCのテザリング用で、毎日鞄に入っているわけではない)私は、いまだに電車の中で新聞を縦四つ折りにしてちまちまと読む。サラリーマンでぎゅうぎゅう詰めの通勤電車に乗ることはめったにないので、さほど近所迷惑にはなっていないと思うが、ばさばさと頁をめくっていると、ちょっと時代錯誤な感じで肩身が狭い。
 さらに前近代的なことに、気になる記事があると、ついその場でびりびりと破いてしまう。あとで切り取ろうと思っていても、読み終わって駅に着いたときに反射的にゴミ箱にポイと捨ててしまうから、気づいたその場でやらねばならないのだ。

 クリアホルダーに差し込んだ(外出の際はたいがいクリアホルダーが鞄に入っている)ぎざぎざの切れ端は、うちに持ち帰ったらきちんとハサミで整えて日付を書く。書かれた内容にインスパイアされてブログを書いたり、取り上げられていた本を図書館で予約したり、そういう具体的な行動をすぐに起こせばいいのだが、なかなかそうはならない。
 記事の内容に対して一言モノ申したい気持ちだけは湧き上がるが、どうもうまく言葉にならない。切り抜いた紙片よりもささやかな、ほんのかすかな思考の切れ端が脳裡をよぎるだけで、はっきりした像を結んでくれない。そういう記事が知らぬ間に増えて、引き出しの中でがさがさと貯まっていく。

 父も、そうやってたくさんの新聞の切り抜きを貯めていた。技術者として半導体やリチウム電池に興味があったのはわかるが、オバマ氏とマケイン氏の大統領選(当時)や「SNSで英語学習」、「麹パワー」等々、種々雑多。セブンの業績好調の理由の「タスポ効果」には線が引かれて「?」とある。
きちんとハサミで切り取って、日付は赤いボールペンで記されている。こういうところは本当に親子似ている。
 緊急入院する3日前の切り抜き記事が「人生のエンディング⑫孤独死」というのは、ちょっと出来過ぎな気がする。父はハサミを動かしながら、まさかそれが最期の切り抜きになろうとは夢にも思わなかっただろう。
 だから、切り抜きの束を7年前の遺品整理の際に見つけたときは、どさっと捨ててしまうことができなかった。かといって全て残すには多すぎたから、最期の1ヶ月分くらいだけ、なんとなく自分のマンションに持ち帰ってきてしまった。
 そしてそのまま、今日に至っている。今、見返してみて、このままとっておくかどうか、少し迷う。

 私が切り抜いた新聞記事は、しばらく引き出しでがさごそしたあと、最終的にはどこかしらにファイリングされる。当然ながら増えて行く一方である。
 電子版にしてEvernoteと連動させれば、こんな原始的な処理をしなくて済むことはわかっているが、スマホさえ使いこなせない身として、そこまでのデジタル化にはとても踏み切れない。いずれにしても、父と違って私の場合、自分自身で読み返さない限り、この紙の束はこの先永遠に誰の目にも触れることはない。

 余談だが、同世代との間で話題になった日経記事のことを、後日8歳年下の男性に話そうとしたら、「日経なんて読んでるのは年寄りだけですよ」とばっさりやられた。


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by miltlumi | 2016-10-03 18:20 | 父の記憶 | Comments(0)

昆布の佃煮

 先日、癌をうまく克服した方の話を聞いた。とにかくできるだけ最新の情報を確かな筋から複数入手して判断することが肝要だという。精密な診断を可能にする最先端の検査装置や部位に応じたきめ細かな治療法は、驚くような進化を遂げているらしい。あと10年もすれば癌は完治できるとか実はもう開発済であるとか、癌にまつわる様々な情報は引きを切らないのもうなづける。
 さほどに人間が躍起になって研究を重ねているせいで、本当に特効薬が出来るかどうかは別にしても、少なくともその症状の経過は相当な正確さを以て予測でき、その都度の対応もほぼ決まっている。
 私の父も、最後の入院ではぴったり教科書に書かれたような経過をたどった。

 教科書曰く、末期がんはもう「治療」はせず、痛みのコントロールが大切である。痛み止めの薬をだんだん強くしていく。あるところまで行ったら、ついにモルヒネになる。強い薬で相応の副作用もあるので、服用に先だってちゃんと家族の了解をとる。それも最初は点滴、それでも効かなくなったら、モルヒネパッチ。
 また、旅立ちが近づくとだんだん食欲が落ちるとも書かれている。人間の身体は、その日に向けて体力が落ちるよう、ちゃんと食欲をコントロールしているというのだ。だから、そうなったら無理に食べさせないほうがいい。水分も無理に取らせると浮腫になるだけだ。

 入院した当初は、痛み止め(まだモルヒネではない)のせいでうつらうつらすることもあったが、まだちゃんと自分でお箸を持って食事をしていた。これなら大丈夫だ、とひそかに胸をなでおろしていた。
 1週間後、ベッドに横たわっている父のパジャマがはだけていた。すっかり浮き出た鎖骨の下あたりに、黒っぽい四角いものが貼ってある。え、もうモルヒネパッチ? そんな説明は受けていない。何を勝手に…と思わず怒りが込み上げる。やってきた看護師さんにわざとらしく質問する。
  「あの、胸のところの黒いものは何ですか?」
 知らばっくれかどうか、看護師さんは即答せずに首を伸ばして覗き込む。
  「これは…」
 言いよどんで、彼女は自信なさげにつぶやいた。
  「こんぶ、じゃないですじゃ?」

 こ、こんぶ…? 看護師さんを真似て胸元に顔を近づけると、それはてらてらと黒光りする「ふじっ子煮 椎茸こんぶ」の「昆布」…。父の好物である。母からの差し入れを食事のときに食べようとして箸からするりと落としたのだろう。
 モルヒネパッチじゃない。お父さんには好物を食べる元気がある。安堵と喜びで、笑いが止まらなかった。看護師さんはきょとんとしていた。

 それからちょうど1ヶ月して、正真正銘のモルヒネパッチが貼られた。時を同じくして、栄養剤の点滴の針を引き抜きたがるようになり、先生もその意思を尊重するように点滴を中止した。「それじゃあ飢え死にじゃない」という母の大抗議で一旦は点滴が再開されたけれど、それがよかったのかどうかはわからない。
 その1週間後。2年後の生存確率は50%、と言われてから1年と8ヶ月で、父は旅立っていった。
 今年もまた、命日の12月30日が近づいてきている。


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by miltlumi | 2015-12-13 09:54 | 父の記憶 | Comments(2)

鶴のふもと

 父が亡くなってもう6年半も経つのに、ゆっくりとお墓参りをしたことがない。
 いつも一緒に来る母は、最初の住人である父の名前の横に自分の名前が赤く掘りこまれている墓石の回りはもちろん、本家その他全部で5か所のお墓の草むしりを手早くきっちりと済ませることばかりに気を取られて、お墓の前で長い間手を合わせてぶつぶつと独り言を言うなんてことは決してありえない。

 そもそも赤字ローカル線の最寄り駅は、お墓まで歩くには遠すぎる上に待合のタクシーなど1台もいない小さな駅だから、一つ手前のやや大きい駅で降りてタクシーを拾う。お墓は、あたりに際立った目印のない、どこで停めてもらえばいいか毎回あたふたしてしまうような国道沿いの田んぼの一画である。乗り付けたはいいが、帰る段になって道端で親指を立てればすいと「空車」が寄ってくる、ということは200%ありえない。
 墓地の真ん中の空き地でUターンをする運転手さんに「30分後にまた来てください」と頼まないと、昔祖母がキツネに騙されたという人気のない道をてくてく歩くはめに陥る。必然的に、お墓参りはきっかり30分以内に完了させねばならない。

 そこら一体の地主だった数代前の惣領が、地所の田んぼを埋め立てて好き勝手に作ってしまったのであろう。鶴首山と呼ばれる小高い山を揖保川越しに東に望む場所である。その山は、文字通り鶴が首を真っ直ぐ前に投げ出して寝そべっているような恰好(実際には、鶴がそんな犬みたいな恰好で眠るはずはないのだが)をしている。標高250mほどの頂上をいただく、こんもりと盛り上がった身体の部分からなだらかに稜線が細く低くなり、そこからまた頭の大きさ分だけふっくらと盛り上がって、あとは道路に向かってふっと落ち込む。
 祖父母の家は、その墓地から南に少し歩いたところにある。父は、京都に下宿するまで勉強部屋として使っていた西の間からいつも鶴首山を見ていた、と言っていた。あれはたぶん父の記憶違いだ。西の間から山を見ようにも、母屋や納屋の屋根が邪魔になるはずである。つるべ落としの井戸と五右衛門風呂のある離れの脇を抜けて南側に広がる田んぼに出て、畦道を真っ直ぐ南に向かって河原までいかないと、山の全貌は視界に入らない。
 でもきっと、父はあの鶴首山が好きだったのだ。

 斉藤茂吉は「灰のなかに母をひろへり」と詠んで、無機物になったそのかけらひとつひとつに母を感じた。私はどうも親不孝なのか、父の骨に「父」を感じることがない。第一関西では、からりと燃え尽きたお骨のすべてを丁寧に骨壺に納めることをせず、喉仏様と頭蓋骨、手足の一部だけを納めた小さな骨壺を墓石の下に安置し、残った骨はお墓の近くの空き地にばら撒くのである。「骨」に対する意識が関東とちがうのだ。
 だから、お墓参りと言ってもあそこに父が眠っているとはとても思えない。むしろ、出掛ける前に寝室の書棚に飾ってある父の写真に向かって、「じゃあちょっと行ってくるね」と声をかけたくらいである。

 父の骨(の一部)が納まっているお墓からは、何一つ遮るものなく鶴首山が見晴るかせる。菊の花に彩られ、お線香の煙が白く立ち昇る墓石越しに山を望むときだけ、ここに父が機嫌よく居座っているように思える。
 こんな里山育ちの父は、海も好きだった。後年、もっと都会に住みたい母の反対を押し切って、マイホームは海の近くに建てた。鶴がつく名前の岬の麓にあった。


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by miltlumi | 2015-06-06 20:04 | 父の記憶 | Comments(0)

娘が生まれた年の特許

 高校時代の友だちからFacebookでメッセージをもらった。私がずっと昔にブログに書いた、父が開発した技術のことに興味を引かれた。部下まで使って調べてみた、その結果をFacebookにもアップした、という。

 読んだとき、胸がきゅんとしめつけられた。涙が出るほど嬉しかった。友だちと言っても、高校の頃はほとんど言葉を交わしたこともない。Facebookを通じて「友達」になり、お互いの共通の友人がいるね、というメッセージをやりとりした程度の間柄である。それなのに、丁寧に私のブログを読んでくれて、私の父の仕事に注目してくれた。
 その技術で特許をとったのは知っていたが、取得年が私が生まれた年だったことを、初めて知った。そんな昔のことを、同じ領域の研究をしていた、というだけで、わざわざ調べて、もう一度陽の目を当ててくれた。ありがたい。Facebookのページを印刷して、父の写真の前に供えようかと思った。遺品整理のときにどさどさと捨ててしまった黄ばんだデータ資料やプレパラートみたいな形をした色とりどりのサンプルを、ちゃんととっておけばよかった。彼に見てもらったら、何かしらの参考になったかもしれない、とまで思ってしまった。

 こんなに嬉しかったのは、父を知らない人が、父の遺したものに注意を向けてくれたおかげで、父が束の間生き返ったように思えたからだ。
 人は二度死ぬ。一度はその人が亡くなったとき、二度目はその人を知っている人が全員亡くなったとき、と言われる。有名人を除けば、その人の知り合いというのは、家族親族、友人知人、大した数ではないし、多かれ少なかれ同世代プラスマイナスアルファ、みたいに年代も限られる。
 一方、その人が遺した「もの」は、もう少し寿命が長い。絵とか歌とか著作物とか。その人を直接知らなくても、その人が創った作品を通してその人を思う、という形で、人々は見知らぬ人を記憶に留める。そうやって記憶された人は、その分二回目の死までの寿命が延びる。
 父は、根っからの仕事人間だった。家族にとっては「豚に真珠」だというのに、訳の分からない技術や開発の話を夕飯の席で延々披露しては、妻や娘に煙たがられた。彼が精魂込めて創り出した(しかし事業化には至らず世間の陽の目を見ることはなかった)技術を、同業他社である娘の高校時代の友だちが、没後5年近くも経ってからちょっとだけ掘り返してくれた。「草葉の陰で父もさぞかし喜んでいることと思います」という常套句を、心を込めて奉げたくなる。確実に、父の寿命は延びたと思う。

 長寿など、望んでいるわけでは決してない。けれど、何かしら自分自身が創った「もの」を遺したい、という気持ちは年を追うごとに少しずつ募ってきている。出来れば、自分が生きた証、というものを。同じことを、つい最近会った同い年の男性も言っていた。そういう年齢になりつつあるということか。
 死後も自分の寿命を延ばす「もの」を創った父のことが、ちょっと羨ましい。
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by miltlumi | 2013-10-09 11:03 | 父の記憶 | Comments(0)

父の記憶 -私をスキーに連れてって

 これは、母から聞いた話である。
 文武両道をモットーとする私の高校は、高校1年の1学期にクロール・平泳ぎ・背泳ぎ全て25m泳げないと、夏休みは泳げるまで補講を受けさせられるスパルタ式であった。運動神経ゼロの私の16歳の夏は、従ってプールの思い出しかない。
 冬のスキーは、幸い雪国ではなかったので、希望者のみ3泊4日の集中合宿。運動神経はもちろん経験もゼロなのに、私は「友達と雪国に旅行」ということだけに惹かれて、ぜひ参加したいと親にねだった。
 ところがこの合宿は希望者が多く、なんと「先着順」。週末の朝9時から体育館で受付。確実に定員内に入るには午前6時とか5時から並ばないといけないという噂に、わが9組は騒然となった。スキー合宿に「絶対」行きたいクラスメート4人が出した結論は、学校に最も近いAさんの家に泊まり込み、始発電車に乗って1番乗りを目指す、というもの。朝晩はもう冷え込みが本格化する11月下旬くらいだっただろうか、私たち4人は結局Aさん宅で徹夜し、その冬最初のダッフルコートを着こんで勇んで学校に向かい、無事合宿チケットを手にしたのだった。

 さて肝心の父の記憶。運動音痴の娘の珍しいおねだりに対し、うら若き女の子4人が、人気のない学校に向かうなんて…、と心配した母が、父に「そんな早朝に、大丈夫かしら」と相談したらしい。父は、しばらくじっと考え込んだ挙句、おもむろに口を開いて一言。
 「オーバーを着ていけばいい
 あのお、心配すべきは朝の冷え込みではなく、女の子が暗闇で襲われないかということなんですけど。逐一説明する気力も失せた、脱力する母の姿が目に見えるようだ。

 事程左様に、父は「娘を持つ父」としての自覚が欠落していた(と、少なくとも母はいつも嘆いていた)。たしかに、門限とか旅行とかの心配やお小言を頂戴するのは決まって母からで、父から何か言われた記憶は全くない。
 結婚のときも離婚のときも、父は賛成とも反対とも言わず、コメントらしいコメントさえ口にしなかった。放任主義だったのか、単に興味がなかったのか、あるいはそれだけ娘を信頼していたのか。

 人生を左右するような私の決断について、彼がコメントめいた発言をしたのは、ただ2回きりだ。ひとつは、新卒で技術会社に就職が決まったとき、「あそこは、いい会社や」と一言。もうひとつは、8年前のお正月、その会社を辞めて金融会社に転職すると告げたとき。このときも、スキーのときのようにしばし黙考したあと、「まあ、外資系でないならいい」と。リーマンショックが起こるずっと前だったが、外資系金融機関の、実績が出なければクビ、というドライな企業文化を、父は心配したのだろう。
 その金融会社さえ辞めて、今は気楽な自由業である。父の予言どおり、いい意味で日本的だった金融会社に、いまだに私はパートタイムでお世話になっている。
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by miltlumi | 2013-01-11 21:20 | 父の記憶 | Comments(2)

父の記憶-破戒

 父は、本が好きだった。男性によくありがちな、シリーズものの本をずらーっと本棚に並べて悦に入る、というタイプで、ドストエフスキー全集、バルザック全集、夏目漱石全集、谷崎潤一郎全集、チボー家の人々(これは全集ではないが5巻あった)など取り揃えていた。それらの頁はめくられた跡がなく、実際に読むのは、もっぱらハヤカワミステリ(若い頃はミステリ作家になりたかったらしい)。
 そして、小学生の子供たちには「少年少女新世界文学全集」をあてがわれた。「東海道中膝栗毛」から「ギリシャ神話」「トムソーヤの冒険」などが詰め込まれた30巻ほどの全集の背表紙に、兄と私は「読んだ」印をつけて競い合ったものだ。
 
 コドモ全集から卒業した、中学2年くらいだったと思う。珍しく父が「今、何の本を読んでいる?」と聞いてきた。正直言って、あの頃は父と親しく日常会話をした記憶がない。記憶がない、というよりも、実際にあまり口をきかなかったのだ。よくある話で、あの年代の女の子にとって父は鬱陶しい存在以外の何者でもない。
 「島崎藤村の『破戒』だよ。」私はそっけなく答えた。「それはどんな内容か?」さらに父は聞いてきた。父との会話をとっとと切り上げたかったのだろう、簡潔に要約してちゃちゃっと答えた。
 それに対して、普段はほとんど子供に愛想を言わない父が「そうか。よくわかった。おまえ、頭がいいな。」と感心してくれた。それから後しばらく、父は親戚に会うたびに「こいつは頭がよくて…」とこの逸話を披露していた。

 父に褒められた光景を明確に憶えているのは、後にも先にもこのときだけである。高校や大学に合格したときも、もちろん父は喜んでくれたはずなのだが、「褒められて嬉しかった」という鮮烈な記憶は、なぜかこの「破戒」のときが一番なのだ。
 そのせいかどうか、私は学生時代から就職した後も、文章を要約することが得意である。大学受験では、日本史の「XXXの乱の意義を200字以内で答えよ」といった問題に199文字まできっちり書いたし、大学の講義ノートは、試験前になると見知らぬ学生にまでコピーのコピーが出回った。仕事では、気づくといつも会議の議事録係だった。

 作家志望だった父は、晩年「私の回想録」という最初で最後の本をしたためた。簡易製本機まで買って自分で印刷した本は、家族と彼の姉妹たちにだけ配られた。かなりの部分は自分の生い立ちから仕事の話、退職後の旅行三昧の思い出で占められている。幼い子供が可愛い、みたいなアットホームな話はとても少ない。
 つまんないなあ、と飛ばし読みしていたら、「娘が中学の時、何の本か忘れたが、どのような本なのかと聞いたら、即座に簡潔、明瞭に応えたときには、こいつは頭がいいと思った」という下りに出くわした。
 父と娘は、同じ思い出を、同じように共有していたのだ。子供を褒めるのは大切だが、一生に1回でも、十分な場合もある。
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by miltlumi | 2012-04-12 23:28 | 父の記憶 | Comments(0)

父の記憶-西伊豆の12月

 私が幼稚園に入る前から、父の会社の夏休みに2泊3日で東伊豆の海水浴場に旅行するのが我が家の年中行事だった。小学校3年の時、西伊豆の土肥に新しくできた小さなホテルのことを父が知り合いから聞き、沼津から船に乗るという珍しい体験をした。

 その後また東伊豆に戻ったのだが、小学6年生は再び土肥のほうだった。海の見える部屋に落ち着いた私たちに挨拶にきたホテルのオーナーに対して、父は「娘が『たまには○○に行ってあげないと可哀そうよ』というので今年はまた来ました。」と返していた。土肥行きを自分が主張した記憶など全くないのだが、父のこの台詞だけははっきり憶えている。
 この旅行には、両親が新婚時代に可愛がっていた、近所の「千代ちゃん」が同行していた。私より10歳近く年上の千代ちゃんとその妹の小百合ちゃんは、兄や私が生まれる前、子供好きな母を慕って毎日うちに入り浸っていたらしい。彼らの両親が引っ越して往来も間遠になっていたが、久しぶりの千代ちゃんの参加は、家族が5人になったようで、2泊3日の旅行のにぎにぎしさもひときわだった。

 このときの記憶が鮮明なもう一つ理由は、ホテルが顧客サービスの一環として記念写真を撮ってくれたこと。後日送られてきた、普通より大きな判に撮影年月日が入った写真を手に、一番最初に嬌声を上げたのは兄だった。
 「お父さんとおまえ、口元がそっくり~!!」 眩しい夏の陽の下で典型的な「はい、チーズ!」表情を浮かべた5人の中で、確かに父と私は全くと言っていいほど同じ笑顔を浮かべている。そろそろ「お父さん」が煙たくなり始めた年頃の私は「えー、いやだあ。」と拗ねてみせたが、写真を変えることはできない。よく見ると、口元だけでなく、鼻のあたりまでそっくりだった。

 父は定年直前、技術の国際標準化業務に携わっていたが、私が就職したメーカーもその団体に代表を送り込んでいた。あるとき社員食堂で、個人的にほとんど話したことのないちょっと気難しげな主任技師が、つかつかと私に歩み寄ってきた。何事?と構えると、
 「あなた、もしかして○○会社の○○さんの娘さん?」 
 父が主幹する標準化グループに参画していた彼は、姓と顔つきだけで、私が父の娘であることを確信したらしい。以来、彼は私には妙ににこやかだった。

 4年前の12月、あの時以来となる西伊豆旅行にでかけた。千代ちゃんの代わりに、兄の妻と二人の子供が加わった。懐かしいホテルは横を通り過ぎただけで、もう少し規模の大きなホテルに泊まった。そこで撮った7人の記念写真の中で、お互い年をとった父と娘は、やはりお互いそっくりな口元で微笑んでいる。
 私の家族4人全員が揃っている、最後の写真である。
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by miltlumi | 2011-11-29 20:17 | 父の記憶 | Comments(0)