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昆布の佃煮

 先日、癌をうまく克服した方の話を聞いた。とにかくできるだけ最新の情報を確かな筋から複数入手して判断することが肝要だという。精密な診断を可能にする最先端の検査装置や部位に応じたきめ細かな治療法は、驚くような進化を遂げているらしい。あと10年もすれば癌は完治できるとか実はもう開発済であるとか、癌にまつわる様々な情報は引きを切らないのもうなづける。
 さほどに人間が躍起になって研究を重ねているせいで、本当に特効薬が出来るかどうかは別にしても、少なくともその症状の経過は相当な正確さを以て予測でき、その都度の対応もほぼ決まっている。
 私の父も、最後の入院ではぴったり教科書に書かれたような経過をたどった。

 教科書曰く、末期がんはもう「治療」はせず、痛みのコントロールが大切である。痛み止めの薬をだんだん強くしていく。あるところまで行ったら、ついにモルヒネになる。強い薬で相応の副作用もあるので、服用に先だってちゃんと家族の了解をとる。それも最初は点滴、それでも効かなくなったら、モルヒネパッチ。
 また、旅立ちが近づくとだんだん食欲が落ちるとも書かれている。人間の身体は、その日に向けて体力が落ちるよう、ちゃんと食欲をコントロールしているというのだ。だから、そうなったら無理に食べさせないほうがいい。水分も無理に取らせると浮腫になるだけだ。

 入院した当初は、痛み止め(まだモルヒネではない)のせいでうつらうつらすることもあったが、まだちゃんと自分でお箸を持って食事をしていた。これなら大丈夫だ、とひそかに胸をなでおろしていた。
 1週間後、ベッドに横たわっている父のパジャマがはだけていた。すっかり浮き出た鎖骨の下あたりに、黒っぽい四角いものが貼ってある。え、もうモルヒネパッチ? そんな説明は受けていない。何を勝手に…と思わず怒りが込み上げる。やってきた看護師さんにわざとらしく質問する。
  「あの、胸のところの黒いものは何ですか?」
 知らばっくれかどうか、看護師さんは即答せずに首を伸ばして覗き込む。
  「これは…」
 言いよどんで、彼女は自信なさげにつぶやいた。
  「こんぶ、じゃないですじゃ?」

 こ、こんぶ…? 看護師さんを真似て胸元に顔を近づけると、それはてらてらと黒光りする「ふじっ子煮 椎茸こんぶ」の「昆布」…。父の好物である。母からの差し入れを食事のときに食べようとして箸からするりと落としたのだろう。
 モルヒネパッチじゃない。お父さんには好物を食べる元気がある。安堵と喜びで、笑いが止まらなかった。看護師さんはきょとんとしていた。

 それからちょうど1ヶ月して、正真正銘のモルヒネパッチが貼られた。時を同じくして、栄養剤の点滴の針を引き抜きたがるようになり、先生もその意思を尊重するように点滴を中止した。「それじゃあ飢え死にじゃない」という母の大抗議で一旦は点滴が再開されたけれど、それがよかったのかどうかはわからない。
 その1週間後。2年後の生存確率は50%、と言われてから1年と8ヶ月で、父は旅立っていった。
 今年もまた、命日の12月30日が近づいてきている。


by miltlumi | 2015-12-13 09:54 | 父の記憶 | Comments(2)
Commented by kearyioa at 2015-12-14 09:26
そういうことがあったのですね。
以前に読んだ「往生したけりゃ医者にかかるな」という風なタイトルの本に、書かれていた安らかな死に近い感じがしました。


あと、思わず怒りがこみ上げてきた、がちょっと怖かったです^^;。
Commented by miltlumi at 2015-12-14 09:41
Kearyioaさん、コメントありがとうございます。
私もあの頃、似たような題名の本を読みました。ああした内容は賛否両論ですが、信じる者は救われる、のだと思います。
「思わず怒りがこみ上げた」のは、今から思うと、父はまだパッチを貼るほど悪くなってないはず、という強い思いがあったせいかもしれません。
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