人気ブログランキング | 話題のタグを見る

禅とスケート

 思はしと思ふも物を思ふなり 思はじとだに思はしや君

 沢庵和尚の「不動智神妙録」第7節「有心之心、無心之心」にある古歌である。先頃32年ぶり(!)にスケートをしたとき、この歌を心の中で何度も繰り返したのであった。

 何しろからっきしの運動音痴だから、32年前は日本ランドと呼ばれていた富士山麓でのスケートも友達の手や腰に捕まって引きずられた記憶しかない(滑った、という意識さえない)。この冬港区に期間限定で誕生した屋外スケート場を、散歩の途中でたまたま見つけた連れに「やらない?」と言われた時、カタチだけスケート靴を履いてあとは手すりにつかまって見てればいいや、と思った。
 ところが、連れはなかなかの教え上手であった。氷の上で棒立ち状態の私に「最初はトントンツー」「靴をハの字にして」「足に合わせて手も振って」「膝を曲げて重心を前に」と、ひとつずつ順番に指示をくれる。いっぺんに言われたらコンランするが、ひとつずつならなんとか意識できる。「手を振って」と言われるとつい右足と右手が出ていた(サイテーな運動神経である)のが、意識して左手を出すようにする。そうやって練習するうちに、ふと気づくと、たった20分くらいで若かりし32年前よりもずっとまともに、どうにか「滑る」ことができるようになっていた。おもろいやん。
 教え上手は、褒め上手。「すごいじゃない」「こんなにできると思ってなかった」と言われ、ほくほくする。しかしスカートに薄いストッキングという、およそスケート服装とは言い難い出で立ちゆえ、その日は1時間で切り上げた。

 自らの上達ぶり(?)に気を良くして、もう一度、今度はGパンに分厚い靴下・手袋の態勢を整えて一人で繰り出した。先日言われた指示を一つ一つおさらいする。前回は「片足だけに重心を置いて、片足浮かせる」のが出来なかったから、重点的に意識する。つい腰が引けてしまうのはどういうときか、どれくらい膝を曲げればうまく重心が安定するか、あれこれ考えるが、なかなかうまくいかない。でもあるとき、ふと出来ている自分に気づく。これだ、と思ったとたんにバランスを崩したりする。最初は意識して、次に意識しないように意識して、それから意識しなくても出来るようになれるのだろうか。
 そのとき思い浮かんだのが、沢庵和尚の古歌である。意識しないように、と意識すること自体、まさに意識している証拠である。意識しないようにとさえ思わなくなれば本物。禅の心そのものである。スケートは、禅の悟りに通じていたのだ。

 意識しないようにということさえ意識しなくなる-鈴木大拙は「禅と日本文化」の中でこれを「To be unconsciously conscious(無意識に意識する)」と書いている-ためには、間違いなく絶え間ない訓練が必要なのだが、そのためには「右手と左足」とか「膝を30度曲げて」と言ったテクニカルな訓練はもとより、「Intuitive mode of understanding(直覚的な理解)」(鈴木大拙)に至るような訓練が必要、らしい。

 スケートだけでなくスポーツをする人なら誰でも、おそらくこのような禅的真実(?)をカラダで経験しているのだろう。運動音痴な人間は、人生も折り返し地点を過ぎた頃にようやく禅の切れ端を感得することができた。
 ついでに得たものは、つるり滑ってころんだときの両手両ひざのアザと、スケートリンクで軽やかに滑っていた幼稚園児からの「大丈夫ですか?」という優しい言葉、計4つ

by miltlumi | 2015-03-04 16:45 | 忘れられない言葉 | Comments(2)
Commented by cazorla at 2015-03-05 04:39
わたしのヴィオラの先生が言っていることと同じ。
そうなんですよね。
英語の文章 写してみせてあげよう。
楽器を覚えるのも禅修行。
Commented by miltlumi at 2015-03-05 09:06
Cazorlaさん、こんにちは! コメントありがとうございます。
そうそう、楽器も一緒ですよね。
ちなみに鈴木大拙の「禅と日本文化」は、外国人向けに英語で書かれた文章です。上述に紹介した本は対訳になっているので、英語と日本語両方読めて面白いです!
<< いわゆる腐れ縁というやつ ある日の夜食 >>