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幸せの黄色いハンカチ

 人は、信じないほうがいい人を安直に信じて、信じなくてはいけない人をなかなか信じられない。その両方がそれぞれ悲劇を生む。
 理由ははっきりしている。信じなくてはいけない人とは、つまり自分が信じていたい人である。信じたいという気持ちが強ければ強いほど、裏切られたらどうしようという不安も強くなる。不安を打ち消すために、より強く信じるかわりに、裏切られてもショックを受けないようにという自己防衛本能が働く。つまり無理やり「裏切られるかもしれない」と心の準備をするのだ。それが高じて、相手を頭から信じない=信じられない、という本末転倒な思考回路に発展してしまう。
 さらに言えば、裏切られたらどうしようという不安は、相手がこちらの信頼を裏切るかもしれない、そういうことをやるかもしれない、と思うせいではない。信じられないのは、相手ではなく自分自身のほうなのだ。
 自分に何かしらの負い目があるとき、その負い目を自分で自覚しているとき、相手もそれを見抜いているのではないか、という不安を無意識のうちに抱えている。そんな負い目を持つ自分なんて、信頼に値しない人間なのではないか。相手は信じてくれるわけがない。自分を信じてくれない(と自分が勝手に思いこんでいる)相手のことを、自分も信じられなくなる。自分の弱さゆえの、堂々巡り。
 人間って、なんて弱い生き物なんだろう。

 「幸せの黄色いハンカチ」を観た後で、そんなことをつらつらと考えた。弱いのは、勇作(高倉健)である。放蕩者だった彼は、自分自身のその後ろ暗い過去ゆえに、あいつしかいないと惚れ込んでいる光枝(倍賞千恵子)のことを信じたいのに信じられない。
 欽ちゃん(武田鉄矢)に「女は守ってやらなくちゃいけない弱いものなんだ」と偉そうに説教しながら、一番弱い張本人が自分であることをよおく自覚している。その弱さゆえに起こしてしまった事件の刑期が明けて光枝に葉書を出した後も、待っていてくれると信じたいのに、信じられない。だから、なかなか夕張に行く勇気が出ないし、往生際悪くもあと数キロというところでやっぱり行かないと言い出し、最後は家が近づくにつれてとても窓の外を見ることができない。
 弱き者よ、汝の名は男なり。

 でも、光枝はちゃんと待っていてくれる。黄色いハンカチを満艦飾にはためかせて。あのシーン、二人の言葉をマイクで拾わず遠目のカメラで姿だけを小さく映し出す。能天気なアメリカ映画みたいにひしと抱き合ったりせず、勇作はわざと背中を向けてのびなんぞをする。思わず手で顔をおおって泣き出す光枝。ようやく遠慮がちに妻の肩を抱く勇作。
 この奥ゆかしさ。人間って、いいなあ。

 ちなみに、信じないほうがいい人を安直に信じたのは朱美(桃井かおり)である。カウボーイハットをかぶって真っ赤なファミリア(昭和50年代の若者の憧れのファミリア!)に「乗ってかない?」なんて声をかけるちゃらけた男の「何もしないから」という言葉を信じるほうがオカシイ。
 どうして信じちゃうんだろう。それはやっぱり、人間は弱い生き物だから。でも、最後はこちらもハッピーエンド。人間って、いいなあ。

by miltlumi | 2014-03-30 14:02 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)
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