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もうひとつの収集癖

 シールと並んで、小学校時代に私が夢中になった収集は、タイル。同世代の友人に言うと、「え、タイル?」とけげんな顔をされるが、少なくとも神奈川県西部の市立小学校では、流行っていた。
 住環境が急速に進化しつつあったあの頃、解体した木造家屋から出たのか、お風呂場の床にはられていた大小色様々なタイルが、廃材置き場などに無造作に散乱していた。正方形や卵形はもちろん、台形の四隅を丸くしたへちゃむくれ形もあって、バラエティーに富んでいた。中でも、大韓航空のスチュワーデスの制服のような薄青緑が特に好きだった。ぴかぴかの真っ黒な小粒(今思えば、あれはオニキスの黒だ)も、捨て難かった。

 しかしながら、その非実用度合たるや、シールの比ではない。形も大きさもまちまちだから、おはじきにもならないし(そもそもおはじきという遊びは最初から興味がなかった)、ビニール袋に詰めて漬物石にするには量が不足していた。それこそ左官屋にでもならない限り、無用の長物である(今ならちょっとしたアンティークとして、自分で漆喰壁を塗っちゃうようなDIY好きに売りつけられるかもしれない)。
 だから、というわけでもないが、収集熱が冷めて最後どうなったか、シールの場合とちがって明確に記憶している。アパートの窓から投げ捨てたのである。

 当時、3階建の社宅アパートの2階に住んでいた。私にあてがわれた部屋は北側の4畳半で、窓を開けると、長屋風の物置の屋根と砂利を敷き詰めた裏庭が見えた。その砂利めがけて、集めたタイルすべてをバラバラと放り投げたのだ。
 それまでの収集努力が水の泡、という寂寥ではなく、一体今まで自分は何をやっていたのだろう、どうしてこんなつまらないことに夢中になることができたのだろう、という不可思議感。楽しいことを何の疑問もなく楽しく続けていられれば幸せだったものの、本当の自分の気持ちに気づいてしまった、というような白けた気分。

 今でも、「夢中であり続けられない自分」を持て余すときがある。一瞬すごくのめり込むけれど、ふとした瞬間に「どうして私はこんなことをやっているのだろう」と立ち止まってしまう。その気持ちが浮かび上がったら最後、以前の純粋な楽しい気分は、もう戻ってこない。何も考えずにただ楽しめた、少し前までの自分へのノスタルジーと、また気づいてしまった、やっぱりそうか、という苦笑い。心の底から夢中になっている人々を、傍観者のようにぼんやりと眺めている。

 今でもよく憶えている。タイルを投げた後少しして、もう一度窓の外に顔を出すと、私より3・4歳下の社宅の女の子たちが、「わあ、こんなところにタイルがある!」とはしゃぎながら、夢中でタイルを拾っていた。ああ、彼女たちはあれを楽しむことができるんだ。でも私は、もう卒業してしまった。幼い者への羨望と、諦念。あの瞬間、少し大人になったようなきがした。
by miltlumi | 2012-06-23 20:48 | マンモスの干し肉 | Comments(0)
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