父は、本が好きだった。男性によくありがちな、シリーズものの本をずらーっと本棚に並べて悦に入る、というタイプで、ドストエフスキー全集、バルザック全集、夏目漱石全集、谷崎潤一郎全集、チボー家の人々(これは全集ではないが5巻あった)など取り揃えていた。それらの頁はめくられた跡がなく、実際に読むのは、もっぱらハヤカワミステリ(若い頃はミステリ作家になりたかったらしい)。
そして、小学生の子供たちには「少年少女新世界文学全集」をあてがわれた。「東海道中膝栗毛」から「ギリシャ神話」「トムソーヤの冒険」などが詰め込まれた30巻ほどの全集の背表紙に、兄と私は「読んだ」印をつけて競い合ったものだ。 コドモ全集から卒業した、中学2年くらいだったと思う。珍しく父が「今、何の本を読んでいる?」と聞いてきた。正直言って、あの頃は父と親しく日常会話をした記憶がない。記憶がない、というよりも、実際にあまり口をきかなかったのだ。よくある話で、あの年代の女の子にとって父は鬱陶しい存在以外の何者でもない。 「島崎藤村の『破戒』だよ。」私はそっけなく答えた。「それはどんな内容か?」さらに父は聞いてきた。父との会話をとっとと切り上げたかったのだろう、簡潔に要約してちゃちゃっと答えた。 それに対して、普段はほとんど子供に愛想を言わない父が「そうか。よくわかった。おまえ、頭がいいな。」と感心してくれた。それから後しばらく、父は親戚に会うたびに「こいつは頭がよくて…」とこの逸話を披露していた。 父に褒められた光景を明確に憶えているのは、後にも先にもこのときだけである。高校や大学に合格したときも、もちろん父は喜んでくれたはずなのだが、「褒められて嬉しかった」という鮮烈な記憶は、なぜかこの「破戒」のときが一番なのだ。 そのせいかどうか、私は学生時代から就職した後も、文章を要約することが得意である。大学受験では、日本史の「XXXの乱の意義を200字以内で答えよ」といった問題に199文字まできっちり書いたし、大学の講義ノートは、試験前になると見知らぬ学生にまでコピーのコピーが出回った。仕事では、気づくといつも会議の議事録係だった。 作家志望だった父は、晩年「私の回想録」という最初で最後の本をしたためた。簡易製本機まで買って自分で印刷した本は、家族と彼の姉妹たちにだけ配られた。かなりの部分は自分の生い立ちから仕事の話、退職後の旅行三昧の思い出で占められている。幼い子供が可愛い、みたいなアットホームな話はとても少ない。 つまんないなあ、と飛ばし読みしていたら、「娘が中学の時、何の本か忘れたが、どのような本なのかと聞いたら、即座に簡潔、明瞭に応えたときには、こいつは頭がいいと思った」という下りに出くわした。 父と娘は、同じ思い出を、同じように共有していたのだ。子供を褒めるのは大切だが、一生に1回でも、十分な場合もある。
by miltlumi
| 2012-04-12 23:28
| 父の記憶
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