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えんがちょ もしくは 方違え

 駅ビルの1階で改装工事をしていた。ああ、またか、と思う。4・5年前にできたガラス張りのビルのその一画は、最初はカフェだった。地の利はいいのになぜかいつもガラ空きで、案の定ほどなく潰れた。次は銀行の出店になった。「働く女性」をターゲットにしたおしゃれなインテリアで、DMやネットで紹介して銀行が力を入れていたようだが、流行っている気配はなかった。今度は何のお店が入るのだろう。何ヶ月もつかしら。
 もう1軒、うちの近くに同様の場所があったが、筋向いの評判の高い和食のお店が姉妹店を出した。そうしたらようやく安定したようで、窓から見えるカウンターは満席の時が多い。親方が、めちゃめちゃ強面の坊主頭のおっさんで、従業員一同全員坊主頭、準備中の店内からは怒声が漏れ聞こえてくるようなところだから、きっと地縛霊のほうが根負けしたに違いない。

 このような場所を、私はひそかに「えんがちょ」と呼んでいる。風水のことは全然詳しくないが、「気」が悪い場所というのは絶対にあると思う。そういう場所は、何をやってもダメなのだ。高名な神主さんを呼んで手厚く御祓いしていただかない限り。あるいは霊が気力を失ってしまうほど強烈な気を発しない限り。
 平民は、いずれの手段にも訴えることができないので、消極的かつ現実的なのは、「えんがちょ」に近寄らないことである。近頃、できるだけ自分の元気を蓄積して機嫌よく生活しようと努力している私としては、このルール遵守は重要である。

 ポジティブサイドの積極策として、できるだけ「気持ちがいい」場所を選んで通る。よくあるでしょう、目的地に到達するのにいくつかルートがあり、距離も夫々ほとんど違わないのに、なんとなくいつも通る道が決まっている、あの感覚。
 あるいは、単にそこに行くだけで元気になれる、そんな場所。雑誌で特集される「パワースポット」の必要はない。東京23区内でも、感覚を研ぎ澄ますと、マイ・スポットに出会える。私の場合、有栖川公園の図書館裏。スポーツジムから見る八芳園の借景。大体、欅と相性がいいらしい。
 そうやって、最も「気」のいい経路を通り、「気」のいい場所に行くことで、毎日エネジーチャージをさせていただく。

 平安時代の「方違え(かたたがえ)」も、似たような風習かと思っていた。ところがWikipediaによれば、特定の神様が目的地の方にいる場合、自宅から直接行くと方角が悪いので、別の方角にある家で一夜を明かして翌朝目的地に向かえば凶を避けられる、というものだそうだ。ふうん。でも、ほんとかしら。そうやって、自分ちじゃないところにお泊りする理由を正当化する手段だったんじゃないかしら。
 現代において方違えを決行するのは、世の中のスピード的にも、家庭円満の観点からも、極めて難しいであろう。自己完結的に「えんがちょ」避けたり「マイ・パワースポット」に寄り道することで、自分を盛り立てるくらいが関の山か。
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by miltlumi | 2010-07-05 23:04 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)

木のちから

 鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏の根っこから若芽が芽吹いたという。樹齢800年。ニュースを聞いて、何の根拠もなく、ほらね、やっぱりね、と思った。

 小さい頃から漫画っ子だった私は、今でも憶えているいくつかの場面がある。そのひとつが、気位が高くて高慢ちきでやり手の女主人公が、2cmくらいに育った銀杏の若葉にくちびるをよせて「本当はこのくらいが一番かわいいのだけれどね。早く大きくおなり」と言っているところ。そしてその主人公に想いをよせる男脇役がつぶやく。「彼女にはこんな面もあるというのに。皆、本当の彼女の姿を知らないのだ」とかなんとか。

a0165235_0522034.jpg 大手町への通勤途上、毎朝のささやかな楽しみの一つは、永代通りの銀杏並木を眺めることだった。この季節、なんとはなしに枝先の色がぼんやりとし始め、じきに若緑色の葉が芽吹く。くちびるを寄せることこそしなかったものの、ちょうど2cmくらいになると決まって私もつぶやいてみた。「このくらいが一番かわいいのだけど」 
残念ながら、そんな私の姿を温かく見守ってくれる男脇役は絶えて登場しなかったが、銀杏は毎年小さな葉をぐんぐん大きくし、秋には黄色く色づき、そして散って行った。そういえば、行幸通りの銀杏たちは惜しみなく銀杏の実を落とす。一度昼休みに散歩に行ったことがあるが、さすがにあんな臭いものをオフィスに持って帰るのは憚られて、もったいないと思いながらもただ眺めるだけで我慢した。

 銀杏は、いつも私に元気をくれた。だから、一旦は根こそぎ倒れた八幡宮の銀杏が芽吹くのは、きっと彼らにとって普通のことにちがいない。木の生命力は強い。木は、「気」に通じる、というのを聞いたことがある。
 太い大きな木があると、私はその幹にこっそりと手を当てる。中を流れる「気」の元をいただくために。
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by miltlumi | 2010-04-12 00:54 | フォトアルバム | Comments(0)

いらいらしない

 VAIO PCのオプションでついていたMcAfeeウィルスソフトは、気が遠くなるほどだるい。ある日突然キーボードのインプットが停止したかと思うと、画面の右下の方で邪悪な赤い矢印がぐるぐる回っている。知り合いは「修行というか苦行」と言っていた。早くこのメール送信したいのに。早くAmazonでこの本買いたいのに。いらいらいらいら。腹立ち紛れにばんばんキーを叩いて、ソフトが止まったときに現れる意味不明の文字の羅列にまた腹を立てる。 
似たようなことは平日の通勤駅でも起こる。毎日几帳面に同じ時間に家を出て同じ電車に乗る人はともかく、そうでない場合や数分間隔でぼんぼん電車が来る路線の場合、ホームへの階段を降りつつあるときに発車のベルが聞こえると、反射的に駆け下りてしまう。運悪く鼻先でドアがしまると、つい「ちぇっ」と舌打ちをする。すごく損した気分になる。ぶつくさぶつくさぶつくさ。そして不貞腐れて3分後に来た次の電車に乗る。

 あるとき、どうして「損した気分」になるのか、何をしたいために3分早い電車に乗りたいのか、胸に手を当てて考えてみた。
①早く会社に着きたい。
②会社に着いて、早く仕事を始めたい。
③早く仕事を始めて、とっとと仕事を片づけたい。
④とっとと仕事を片づけて、早く家に帰りたい。
⑤家に帰って早く寝たい。
⑥早く寝て、早く起きたい …わけではなく、ただ少しでもたくさん寝たい。
 ここまで考え付いてようやく、階段を踏み外してずっころぶリスクを冒してまで3分早い電車に乗る意義のなさに気付いた。

 もしも「③9:30から始まる会議の資料を20部コピーをとらねばならない」とか「⑤23:00からのWBSを絶対観たい」とかいうなら、それなりにリスクテイクの意味はある。
 あるいは大多数の人は、単に「とにかく早くしたい」だけかもしれない。一種のゲーム感覚。ぎりぎりセーフで飛び乗れたら「勝った」と思う。その勝利の感覚、アドレナリン放出感が、負けた時のいらいら・ぶつくさを補って余りあるものだから、止められない。

 でも、「わけもなくいらいらする」「でもいらいらしたくない」という人は、一度上述のような分析をしてみてはいかがだろうか。大概は大した根拠のない思いこみ(心理学ではIrrational beliefと呼ぶ)に突き当たる。
 McAfeeが回り始めたら、いらいらする代わりに手近な書類を手にとる。いくつかのパラグラフを読み終わる頃には、さすがに矢印は消えているから、そのまま淡々とメールの続きを書き始める。電車を1本逃したら、夜ベッドで読むはずだった頁をホームで読むだけだもんね、と鞄から本を取り出す。
 かくして、日常生活は「いらいら」が極小化され、ネガティブなエネルギーを使うことなく、機嫌のいい時間ばかりになっていく。
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by miltlumi | 2010-03-21 11:50 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)

オリンピック嫌い

 夏と冬、2年ごとにめぐってくるオリンピックは、いつでも私をひるませてしまう。そもそもスポーツはやるのも苦手(小学校のときから一貫して運動音痴)。加えてTV嫌い(大学時代の寮生活でTVがある集会室に足を運んだのは3回くらい、生まれて初めての一人暮らしでは、最初の2年間TVなしでも不自由なかった)。
それでも、プロ野球は「贔屓のチームないの」とにこにこしていればいいし、流行りのTVドラマも「私TV観ないんだ」と言えばまあそれで済んでしまう。
 ところが、オリンピックはそうはいかない。普段は愛国精神なんて死語のはずなのに、オリンピックが始まると皆にわか「日本国民」に早変わり、応援しないと非国民扱いされる。時差も構わずリアルタイムでメダル候補者の決勝戦にかじりつき、翌朝は睡眠不足の目をこすりながら職場で劇的瞬間を反芻しあう。バンクーバーはこの週末に始まったばかりだから職場の光景には遭遇していないが、今日の昼過ぎに行ったスポーツジムのサウナで、私は上村愛子選手が4位だったことを知った。そこで「あら、そうだったんですか?」なんて時差ぼけなコメントをしようものなら、「えっ、まさか、ご覧になってなかったの?」と白い目で見られること必至。

 でも今回、オリンピックを観たくない本当の理由がわかった。トリノや北京のときに比べて時間的・精神的余裕が増えた今回、離れて暮らす母にせっつかれておつきあいで開会式を眺めていたとき。
 選手入場。夫々の国の代表選手たちのエピソードが簡潔に伝えられる。特に開会式当日に仲間を失ったグルジアの選手たちの腕章と笑顔なしの行進。
 カナダの歴史を表現したセッションは、アリューシャン列島から、我々日本人と同じ血を引くエスキモーの祖先がやってくるところから始まる。トーテムポールから、メープルリーフ。英仏による先住民の迫害の歴史を巧みにベールで覆い、「環境に配慮したオリンピック」を印象づける演出。選手入場のときに中央で踊っていた民族衣装の人達は、本当にもう何のわだかまりもないのだろうか。
 そして聖火入場。白い靄の中から現れる車椅子姿。最後の4人が輝く柱に点火したとき、4本目がないことに私は気付かなかいほど、画面にくぎ付けになっていた。

 こうしたプログラム一つ一つが全てドラマティック。最初から最後まで涙が止まらなかった。…そう。オリンピックは、世界の過去・現在・未来が凝縮されていて、多くの人々の人生が切り取られていて、こちら側の心が受け止めきれなくなるのだ。全てを感じとろう、感じたものをもう一度心の中に映しだしてみようとすると、たくさんのエネルギーが必要となって、疲れ果ててしまう。ゆっくり自分のペースで消化するには、2週間のスピードは速すぎる。

 感動するには、エネルギーがいる。だから、自分のエネルギーレベルに自信がないときは、極めて消極的な選択として、「観ない」ということになってしまうのだ。
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by miltlumi | 2010-02-14 21:51 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)