天空橋

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天空橋という駅が好きだ。
羽田空港まであとひとつ、の場所に相応しい、素晴らしい名前だと思う。
おおらかに広がるイメージと裏腹に、地下に潜ってしまうところがなかなか番狂わせっぽくて侮れない。

ホームの壁面の藍色のタイルが、宇宙が透けてみえそうな高い空を思わせる。
一方で、もしかしたらこれは海の底の色なんじゃないかとも思う。

天空橋は無人駅で、プチ海ほたるみたいに海の上にぽつんと浮かんでいる。
ホームからエレベーター(この駅にはエスカレーターはない)で地上に上がる。
ホーム階から改札階まで、ビル3階分くらいの長さがある。
エレベーターの扉が開くと、そこはいきなり屋外である。
大田区と羽田の間の凪いだ運河のような、でもなぜか茫洋とした海が、眼前に広がっている。
一瞬呆然として、それからくすりと笑ってしまう。だって、天空橋なんだから。

…そんな想像が次から次へと思い浮かんで、村上春樹ばりの小説さえ書けそうな気がする。
(というのも、村上春樹の小説で私が一番好きな「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の冒頭に、延々としたエレベーターの描写が出てくるのだ)

天空橋で降りる人を見たことがない。
でもそれは、私が勝手に都合の悪いものを視界から消しているだけかもしれない。
この駅に乗降客は似合わない。
けれど、いつかは、降り立ってみたい気がする。
北海道や福岡や、JFKやシャルルドゴールに行くついで、ではなく、
天空橋に行くために京急に乗って、天空橋で降りる。
そのときは、スーツケースの代わりに、色とりどりの風船を持っていきたいと思う。



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# by miltlumi | 2017-07-28 10:21 | フォトアルバム | Comments(0)

祝・世界遺産登録 宗像・沖ノ島と関連遺産群

 宗像大社の一括世界遺産登録が決まった。よかったよかった。
 というか、そもそも沖ノ島とその周辺だけが「世界遺産」だなんて、仮とは言え、世界遺産委員会が下した判断がオカシすぎた。片手落ち以外の何物でもない。あのニュースが流れたとき、何考えとんねん、と珍しくTVに突っ込みを入れたほどだった。

 神社フェチな私は、もちろん彼の地を訪れたことがある。まず大島に船で渡り、あの小さな島をてくてく横切って遥拝所まで歩き、はるかかなたの沖ノ島を拝んだあと、またてくてく歩いて船に乗って、最後に陸地側の辺津宮に詣でた。
 地図で見るとよくわかるが、辺津宮から大島の中津宮と遥拝所、そして沖ノ島は、まぁーっすぐ北西方向に一直線に並んでいるのだ。
 そのラインをさらに北西に延ばせば、対馬、そして釜山に続く。古代、追い付け追い越せの「世界」が中国大陸とその玄関口である朝鮮半島だった頃の日本にとって、このラインは大きな意味があったのだと思う。
 今でも沖ノ島は女人禁制だし、大島の遥拝所でさえ陸からはけっこう遠い。私を含むこちら側の平民たちは、日常の中では辺津宮から神様を拝むしかない。拝む側と拝まれる側、両方あって初めて成り立つものだろう。

 …という宗像大社の話は、実はただの前置き(笑)。お話したいのは、「遥拝」のこと。これ、最近のマイブームなのだ。拝む相手は、神様ではなくて、私の友達。

 例えば先日、AさんとBさんと私が集まった。1年前までお互い見ず知らずの他人だったのだが、顔の広いCさんが企画したパーティでたまたま集まり、なんのかんのとするうちに仲良くなった。このトシになって、仕事も趣味もカンケーない知り合いが出来るのは結構レア。ましてや、「仲の良い友達」と言える関係になれるのは、僥倖と呼んでもいい。
 そのとき集まったのも、前もって約束していたわけではない。私がAさんを勉強会に誘って二人で参加し、帰りがけAさんが「そういえば、これからBさんと会うんだけど、顔出す?」「え~、そうなんだ、行く行く!」。待ち合わせのエクセルシオールにAさんと一緒にいる私を見て、Bさんは「きゃー、ここで会えるなんて」ってな軽いノリ。
 ひとしきりおしゃべりしながら、3人改めて振り返る。
 「こうやって私たちがここにいるのも、Cさんのおかげだね~」
 いやはや、誠に有難い、というわけで、僭越ながら私が号令をかけ、3人揃って(どこにいるかわからない)Cさんに向かって「遥拝」したのである。

 私にとっての「Cさん」的存在は、他にも何人もおわします。今、私がこのようにここに在るのは彼女(彼)のおかげ、と思うとき、でたらめな方向に手を合わせて、どこで何をしているかわからないその人に、「遥拝」をする。

 遥拝する先があるのは、佳きことである。そう思うだけで、トランキライザーになる。神様がそこらじゅうにおわします国に生まれて、よかったと思う。


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# by miltlumi | 2017-07-09 21:00 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)

どっちが好き?

 「(サンドイッチは)たまごのとハムのと、どっちが好き?」
 「あかとあおは、どっちが好き?」
 5歳と9歳の女の子が初めて出会ったときの会話に、胸がきゅんとした。といっても、現実の話ではなく、江國香織の小説の中の一節。この人の書く物語の手触りは、いつもあまりに懐かしい。
 具体的な記憶はないけれど、小学校に入って間もない頃、きっと私たちも似たようなやりとりをしたにちがいない。
 「チョコパフェとプリンアラモード、どっちが好き?」
 「ブランコと鉄棒、どっちが好き?」
 「国語と算数、どっちが好き?」
 何を訊かれても、即答していた。選ぶのはカンタンだった。そして同じ質問を相手に返す。その答えが、自分と同じでも違っていても、別にどうでもよかった。単純にその子のことを、知りたいだけだったから。

 カンタンでなくなったのは、中学3年生のときだ。
 「ベイシティーローラーズとクイーン、どっちが好き?」
 別にどっちも好きじゃない、とは言えなかった。何しろクラスの仲良しグループは大体いずれかのファンで、もっと発展家はキッス、というご時勢。さだまさしのカセットテープをひそかに交換し合えるのは、隣のクラスの桃子ちゃんだけだった。
 高校になって、「トシちゃんとマッチ、どっちが好き?」と訊かれたときは、ゼッタイに決してデートできない相手より、同じクラスのK君かT君かのほうが重大でしょ、と思った。でもそんなことを言って、この場に水を差すべきではではない、という常識は、理解していた。

 明らかに苦い「どっちが好き?」クエスチョンは、大学入学早々。新しいクラスメートからこう尋ねられた。
 「トルストイとドストエフスキー、どっちが好き?」
 …。ドストエフスキーという名前は、父の本棚に並んだ全集の背表紙でしか見たことがない。しかし、卑しくも文学部系進学者の面子として、「読んだことないからわからない」と言うわけにはいかない。唯一読んだアンナ・カレーニナを心のよすがに、「トルストイ」と答えたときの忸怩たる思いは、いまだに生々しい。

 「お酒と家電と、どっちが好き?」
 大学4年、就職先の候補会社についての自問自答。自分の好き嫌いより、世間の評判や会社の将来性に女性活躍度合、そして何より、相手が自分を選んでくれるかどうか、がモンダイだった。ちなみに、お酒の会社は1次面接であっけなく落ちた。

 そして今。訪問先でのシンプルな質問。
 「コーヒーと紅茶、どちらがお好きですか?」
 「いえ、どちらでも。手間のかからないほうで結構です」
 答えになってない、っちゅーの。

 「どっちが好き?」というシンプルな質問は、こうやって大勢の意見や常識や面子やはったりや忖度が絡みついて、どんどんフクザツになってくる。
ひと様から見れば、好き勝手やりたい放題に見えるであろう(というか、実際よくそう言われる)私でさえ。
 もしかすると、好き勝手やるからこそ、かもしれない。自分の気持ちに耳をそばだて、好きか嫌いか、すごく考える。ゼロか100でなくても、30:70か55:45か。最終決断はゼロサムにならざるを得ないから、ちょっとだけちがうな、という感覚が残る。でも、この感覚を、私は嫌いではない。
 忙しすぎて、自分の気持ちを知る時間がなくて、もはや何が好きかわからなくなっている人の耳元で、こっそり囁いてあげたい。
 「心の底に眠ってる正直な気持ち、早く起きてくださーい」


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# by miltlumi | 2017-07-02 10:15 | 私は私・徒然なるまま | Comments(2)