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 謙虚な人、という人種がいる。私もその一人である(今ここで笑った人、笑わないでね(笑))。謙虚は美徳のひとつではあるが、行き過ぎると自分に自信が持てなくなったり卑屈になったりして、人生なんだか暗くなってくる。
 そんな人のために、とっておきの処方箋を友達から教えてもらった。名づけて「どういたしまして」戦略。

 例えば、今つきあっている人と別れたいけど、こんな私を好きになってくれる人なんてもう未来永劫現れないかも、今の人と別れたらもう次はないんじゃないか、という謙虚な不安で立ち竦んでいるアナタ。
 次がないって、こんなに素敵なアナタを、男たちが放っておくはずないじゃないですか。そう言われても、目線が高くて自分に厳しいアナタは「え~、でも、もうXX歳過ぎちゃったし、〇〇は増える一方だし△△は衰える一方だし、魅力なんてどこにも。。。」と謙虚丸出し。
 だめダメ駄目。アナタは魅力的です。ピリオド。

 「え~、でも、新しい人との出会いなんて、どこにあるのかしら」
 犬も歩けば棒にあたる的な「出逢い」(この漢字のほうがなんかエロチックだね)なんてものは、映画の中だけ。もっと現実的なアプローチでなくちゃ。まず、生理的にNGでない知り合いの男性と気楽な飲み会を設定する。できれば共通の女友達も引き込み、あちらも複数の男性を連れてきてもらう。要は合コンである。
 でもそこで、物欲しげな素振りを見せる必要はもちろんない。なんたってアナタは魅力的なんだから。ただ相手がおそるおそる話しかけてくるのを待てばよい。そうして相手が、「アナタのような素敵な方とお話させていただいて、ありがとうございます!」と感謝の意を表したとき、おもむろにこう口にすればいいのである。
 「どういたしまして」
 どうだ、この優雅な響きは。

 「どういたしまして」というときのアナタは、右15度くらい身体を斜めにして(そうすると、本来の優しい表情が出やすいと言われる顔の左側が相手に近くなる)、ちょっとだけ頭を左に傾け(そうすると、ちょっと心に疑問符うかんでる風になり、相手の闘争心を程よく刺激する)、口角をやわっと上げて微笑む(そうすると、相手はもしかしてイケるかも、という期待で胸をバクハツさせる)。
 あとはそのまま鷹揚に構え、しかるべきプロセスの途上で相手が粗相をしないかどうかを見極めて、レッドカードを切らずに済めば、最後は例の決め言葉。
 「あなたのような素敵な方とお付き合いさせていただき、ありがとうございます!!」
 「どういたしまして」
 これで、真紅のベルベットの玉座、孔雀の羽で出来た大扇子、ワインがなみなみと注がれた金のゴブレット、といった小道具があれば完璧である。相手は、女王様のようなアナタからの「どういたしまして」という一言に感激の涙を流し、足元にひれ伏すのみ。

 実際やるかどうかは別にして、こうした光景を想像するだけで、アナタには根拠のない自信(笑)が湧いてくる。そして、街を歩きながら、よさげな殿方を見かけるたびに「どういたしまして」とつぶやいてしまえば、自ずとアナタの立ち居振る舞いには女王様並みの余裕と優雅さが加わる。
 いきなり「どういたしまして」モードで臨まれたら、相手はもう「ありがとうございます」という立ち位置しかない。わたし、感謝される人。ボク、感謝する人。
 得てして世の中の幸せなカップルは、女性のほうが立場が強いのである。


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by miltlumi | 2016-08-11 22:34 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(6)

原理主義と村八分 (下)

 一神教であるキリスト教への信仰から発した考え方である原理主義が、通用しなくなってきている。「原理主義の終焉」という概念を1歩進めてみるとき、「村八分」という言葉が思い起こされる。

 江戸時代からのこの慣習は、コミュニティの掟に反した村人は基本全面的に排除するけれど、お葬式と火事のときだけは例外にしてやろうという、いわば原理主義の妥協だ。お葬式をしないで遺体を放置すると疫病の原因になるから、火事は延焼の危険があるから、というご都合主義の裏腹でもある。
 まさに、陸上はNGだけど柔道はOKというIOC、離脱はさせても連携は続けるというEU、それぞれに共通する姿勢である。キリスト教西欧世界においても、原理主義を抑えて、八百万の神を奉ずる日本人の一種優柔不断な、しかし極めて現実的な考え方が、ようやく市民権を得つつある、と考えるのは、手前味噌だろうか。

 ただし、ここで我々日本人が特に気をつけなくてはならないのは、現代の「村八分」のルールは自分たちの手で作っていかなくてはならない、という点だ。
 江戸時代の「村八分」は、おそらく土地の名士の村長さんか誰かが鶴の一声で作られたにちがいない。村民の多くはその意味するところも深く考えずに諾々と受け入れた。お上の決定に従ってさえいれば、安泰だった。「原理主義の妥協」という原理主義(撞着語法的だが)だった、とも言えるかもしれない。
 今、国家政府はおろか憲法も天皇も、原理だと思っていたものがどんどんそうでなくなっていく中、現代における「村八分」のルールは、自分で考えなくてはならない。自分の村で何を「八分」にし、何を「二分」にするのか、そもそも「十分」とは何なのか、自らのアタマで考えない限り、天からもどこからも正解は降ってこない。自らルールを決め、自ら決定することが求められている。

 そういえば、IOCの決定に対して、少なからぬ競技国際連盟が一斉に異を唱えた。開会式まで2週間を切っているという時間的制約を懸念したことは理解できる。しかしそもそも、重要な決定を自らの手に委ねられてしまった、という本質的な戸惑いが、そこにはなかっただろうか。自分で考えて、自分で決定しなくてはならないことに対する、条件反射的な忌避意識。何しろ、決定の後には、必ず責任というものがついて回るのだから。
 EU離脱に投票したイギリス人が、今更ながら自分の下した決定の重大さを痛感し、やり直したいと思っている、という話と同根であることは、もはやここで付け加える必要もなかろう。

 人は、選択の自由を希求する生き物であるにも関わらず、選択肢が多いことが必ずしも幸福の最大化にはつながらない。フロムの「自由からの逃走」を引用するまでもない。今や心理学の分野で科学的に立証された事実である。
 一方で、行き過ぎた原理主義が人々の幸福には決してつながらないことは、既に歴史的に証明されている。複雑になり多様化する世界、様々な価値観、あふれる情報を、所与のものとして受け止めざるを得ない。

 コトの中身が何であれ、自分のアタマで考え、選択し、決定し、責任をとる。空から降ってくる原理主義に付和雷同せず、時々刻々の世界の変化を柔軟に受け止め、自分で決めていく。
 「優柔不断」ではなく、「優柔勇断」というところか。


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by miltlumi | 2016-08-05 09:32 | Comments(0)

原理主義と村八分 (上)

 リオオリンピックが目前に迫ってきた。開会式は、いつも掛け値なしに感動するものだが、今回注目すべきはなんといってもロシアだろう。本来出場すべき選手が歯抜けになったチームメンバーは、どんな表情で行進をし、他の国々はどんな表情で迎えるのか。
 「ロシア全面排除せず」というIOC決定の見出しが新聞の1面に載った日、折しもその横には「EU離脱 混乱回避へ連携」という記事があった。
 IOCがロシア選手の参加をすべてNGにしなかったこと。イギリスのEU離脱という現実の前にG20が連携を強調したこと。いずれも賛否両論いろいろあるようだが、国際的なこの2つの現象を目の当たりにして、ふと思い浮かんだのは、「原理主義の終焉」という共通項だった。

 「原理主義」という言葉を初めて耳にしたのは、大学入学直後。銀杏の若葉眩しいキャンパスには、学生運動の立て看板がずらりと並び、講義を受けに大教室に入っていくと、独特のフォントで書かれた藁半紙が机上に舞い飛んでいた。
 今思えば、その大学を目指して必死に受験勉強をしていたその前年の夏に、スポーツの祭典が政治的原理主義に翻弄された、あのモスクワオリンピックが開催されていたのだ。
 東西冷戦、南北問題、第三世界、等々、世界をくっきりと二分(もしくは三分)する概念で全てを語っていた当時の規範がもしも今も生きていたとしたら、ドーピング問題を出しにして(東の)ロシアを懲らしめてやろうという原理主義的思惑が、それ以外の論理にすべてうっちゃりをくらわせたであろうことは想像に難くない。
 リオからロシアを全面排除しないという判断は、1980年代の常識からすれば、まさに言語道断。逆に言えば、あれから30余年が過ぎた今、世界は冷静になり、All or nothingの原理主義に突き動かされないだけの判断力を身につけ始めている、ということではないだろうか。

 1993年に発足したEUに関して言えば、超国家主義という、東西対決とは真逆な意味での原理主義を体現して発足したと言えるかもしれない。有史以来明に暗に敵対と合従連衡を繰り返してきた民族たちが1つにまとまろうという歴史的意義は、「3億人の巨大市場誕生」と持てはやされた経済的意味合いと相俟って、域外の一平民である私にとっても十分インパクトフルであった。
 それが、EU第二の大国であるイギリスが離脱するとは。原理主義的な考えに基づけば、これまた言語道断。コミュニティの理念に背を向けた国など野垂れ死んでしまえ、と罵倒されるかと思いきや、G20もEUも、離脱は前提としつつもどうにか連携しようという姿勢を必死に打ち出している。

 ここでも、原理主義は影を潜めている。もちろん、世界経済の不確実性が自国に悪影響を及ぼさぬように、という手前勝手なご都合主義もあろう。言い換えれば、もはや好むと好まざるとに関わらず世界は複雑に絡み合い過ぎて、原理主義を貫こうにも貫き通すことができなくなっているのだ。貫こうとすれば、それはエンドレスの戦闘になる。       
                    ・・・(下)に続く


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by miltlumi | 2016-08-04 17:51 | 私は私・徒然なるまま | Comments(0)