カテゴリ:リーダーシップ論( 6 )

イングリッド・バーグマンとキャロル・ドウェックと中森明菜

 「私が後悔しているのは、やらなかったことであり、やったことではありません」
 イングリッド・バーグマンのこの言葉が好きだ。何かをやろうかやるまいか迷っている人を見ると、その背中を押すのにいつもこの言葉を引き合いに出す。

 と言いながら、私自身が本当にそう思っているのか。やって後悔したことはないのか、と問われると、もじもじしてしまう。「やらなきゃよかった」と思うときが、実は、これまでも今も、少なからず、ある。
 それはどういうときかと言えば、もちろんやったことがうまくいかなかったときである。
 意図した結果に結びつかなかった。失敗してしまった。苦い思いを噛みしめながら、ついつぶやく。
 「あー、もう、こんなんだったら初めからやらなければよかった」 
 イングリッドの言葉が心の片隅でかすかにこだましているのだが、「やってよかった」とはどうしても思えない。縮小均衡、だとはわかっていながらも、「やらない」という選択肢ばかりに心が惹かれてしまう。

 最近ポジティブ心理学の勉強を始めて、改めてわかった。キャロル・ドウェック教授の言う典型的な Fixed mindsetだったのである。自分の能力は固定して変わらない、という思い込み。成長意欲の欠落。
 「やらない」よりも「やる」ほうがいい、というのは、やれば必ず成功するから、ではない。やって失敗しても、その体験を振り返って、どうすればよかったかを考えて、次に生かす。そうしたら、次は前よりも少しは上手にできるはず。そうやって少しずつ上達していく。こうして学びを成長につなげていくからこそ、「やる」ほうがいい、のである。何もやらなかったら、何も失敗しない代わりに、何の成長もない。

 ところが私は、「失敗した」ということに呆然として思考停止してしまって、そして何よりその体験に関わる人たちに自分のハズカシイ姿を晒してしまったという羞恥心ばかりが先に立って、「やらなければよかった」となるのである。
 正直に言うと、思考停止の背景には「自分は出来る。自分は完璧」という根拠のない思い込みがあるのだ。これこそFixed mindsetの罠。

 以前、一回り近く年上の、世間的には成功者と目される経営者が「人生の目的は人間として熟成することだ」とおっしゃっていた。…ということを以前もブログに書いたような気がして、見返してみたら、6年前に書いていた。彼の言っていた、いわばGrowth mindsetをすっかり忘れていたとは。
 改めて思う。人生って、タイヘン。人間生きている限り学び続け、成長し続けるなんて。

 「恋も二度めなら少しは上手に…」という中森明菜の歌がふと思い浮ぶ。二度めどころか20回やっても恋なんかうまくいかない。だからって恋することを止めたら、人生何の楽しみもない。ということはわかっているので、性懲りもなく恋はする。このGrowth mindsetを恋愛以外にも適用すればいいのだ。たまに、「もう恋なんてしない」って思うこともあるけどね。


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by miltlumi | 2016-03-29 09:21 | リーダーシップ論 | Comments(0)

最近の若いモン

 「最近の若いモンは、と言うようになったらマズいよね」と言うこと自体、近頃は少なくなるほどに、開き直って「最近の若いモンは」と言うようになった。さほどに「最近の若いモン」とのギャップを痛感する今日この頃である。

 先日も、同世代とそういう話で盛り上がった。最近の若いモンは「すみません」の一言がない、というのが話題の中心。彼女が言う。
 「自分が間違ったことを指摘されたら、まず『すみません』だろっ!って思うんですよね~」
 そうそう、やれって言われたことやってないのに、ごめんなさい、まだ出来てません、ではなく、いきなり言い訳を始める。
 -いや、だからそれについてはこう考えててあの人に連絡しないといけないんですけど。…ぐじゅぐじゅぐじゅ。
 -だから、やったの、やってないの?
 -やって…ません。

 阿吽の呼吸が通じ合う仲間とクダを巻いているだけでは何の改善にもならないので、「最近の若いモン」と話し合いを持つことにした。ちょうど大きなプロジェクトが終わったばかりで、「振り返りミーティング」に絶好のタイミング。僭越ながら人材育成研修ファシリテーターの立場で仕切らせてもらう。当該プロジェクトには、私も実行委員の一人として参画していたので、自らを振り返る立場でもある。
 面白いもので、「研修ファシリテーター」だと思うだけで、昨日まで「このやろー」と思っていた相手に対する意識が、「彼(彼女)が成長するにはどうすればいいのだろう」という発想に速やかに切り替わる。「若いモン」の言動を振り返りながら、彼らの心の根底にある「思い」についてあれこれ考えてみる。で、ひねり出した仮説。
 「否定形を受け入れる勇気がない」

 子供の頃から「いい子いい子」で育てられて、親からも先生からも「このバカが」などと否定的な言葉を浴びせられたことがない。学校では「わかりませーん」なんて質問することなく、先生が期待する「正解」に一早くたどり着くスキルをひたすら磨いていく。優等生であるほど、「出来ない」「知らない」という否定形の言葉を口にすることが憚られる。
 しかし現実には、出来ないこと、知らないことが次々出てきて当然である。わからない、ということを認めた上で、学んでいくしかない。

 ミーティングで、「否定形を受け入れる勇気を持つ」という提案をしてみた。案の定、言われた若いモンたちははたと静止し、「そう言われてみればそうかも」ということになった。しかし、もちろん一筋縄にはいかない。
 「でも、『オマエ、出来ねえじゃないか、ばかやろー』と言われて『何くそっ』とモチベーション上げる人もいるかもしれないけど、私の場合はやっぱり『出来るよね』って肯定形で考えたほうがモチベーションが上がるんです」
 「巨人の星」の星一徹はもう時代遅れなのである。褒めておだてて木に登らせる、最近の若いモンは、北風ではなく太陽アプローチでなければ気持ちよくないらしい。しかし、自分の自分自身に対する認識として、「出来てない」ことを「出来てる」と思うのは、間違いである。やはり「出来ていない」ことを認めないと始まらない。う~ん。

 「なんか、言葉遊びというか、禅問答みたいになっちゃうんだけど…」
 おそるおそる切り出してみた。
 「『出来る』という肯定形であくまで自分を捉えたいのであれば、『出来てない』と言うことが『出来る』というふうに考えてみたらどうかな?」
再び、彼らの目が点になる。
 「…なるほど。それだったら、出来るような気がします」

 それぞれ自分の言動改善計画を立てて、1ヶ月後にまた振り返りをすることにした。ちなみに私も若いモンから色んな指摘を受け、「改善計画」を策定した。お互いどう変わるか楽しみである。


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by miltlumi | 2015-12-18 08:50 | リーダーシップ論 | Comments(0)

日経新聞にモノ申す

 昨日の日経朝刊に「SONYなきソニー復活」という記事が出ていた。業績は回復したものの、自他ともに認めていた当社の「主役」である「SONYという世界に誇るブランド」が不在だ、というのである。
 普段ビジネスに関することはここに書かないようにしているが、さすがにこの記事を読んだら書かずにおられなくなった。メディアというものは、かくも時代錯誤だっただろうか。

 記者がいつどこで、以前のトップが「当社の資産は…技術ではなくブランド」と語るのを聞いたのか、本当に文字通りそう言ったのかどうか、真偽のほどは知らないが、ソニーにとっての「ブランド」の概念が「技術」と切っても切り離せない表裏一体であることなど、常識ある日本人の常識である。「SONY」が「世界の消費者を惹きつけてやまない」のは、それが高い技術力や斬新な商品提案力の象徴だったからだ。
 TVやPC等いわゆるB2Cの商品が、デジタル技術によって本質的な差異化が難しくなって以降、技術会社としてデバイス(部品)事業に傾注していくのは必然である。そうした部品が一般消費者の目に触れないからといって、この事業がSONYブランドの価値向上に大きなインパクトがないというのは浅はかな見方である。

 同じく稼ぎ頭の金融ビジネスは、SONYブランドのおかげで消費者に一定の安心感を与えるが国内だけだからダメだ(とは明記していないが)という論調も、「ソニーブランド」の別の意味をわかっていないとしか思えない。
 先日、たまたまソニー不動産の社長と話す機会があった。彼曰く、「日本における旧来の商慣習に囚われずグローバルでイノベーティブなビジネスモデルを実現することで、消費者に対して新しい価値を提供するこの会社は、まさにソニースピリットそのものです」。ちなみに彼はパナソニック(家電のソニーの宿敵!)からソニーに転職してきた人間である。
 「イノベーション」と言う言葉が「技術革新」を意味する、という見方はもはや誰もしないと思う。コロンビア大学のとあるMBAコースでは、「Think and act differently in a more useful way」と定義している。SONYブランドがイノベーティブの代名詞なら、ソニー不動産は、まさにこのブランドを冠する資格があるのではないか。それでも多くの人が、電機メーカーのソニーが不動産業を始めるのは違和感がある、と言うだろうが。

 だが、そうやってソニーの稼ぎ頭が家電(というかB2C商品)でなくなってしまったことを嘆くこと自体も、既に時代錯誤ではないか。世の中のスピードがどんどん加速していく中で、同じ商品群に固着してずっと成長し続ける(利益を増やし続ける)ことなど、不可能である。
 歴史ある米国のウェスティングハウスが「本業」の電機事業を売却してCBSという放送局を買収したのは、もう20年近く前の1997年。GEが常に成長を続ける為にセクターを越えて次々と事業ポートフォリオを入れ替えるのは有名な話である。Going concernを前提とする株式会社にとって、こうして常に変わり続けることは必然なのだ。

 日経新聞が、ある紙面では「企業は変化し続けなければいけない」と言いながら、こちらの記事ではソニーにずっとTVやオーディオや電話機を作り続けてもらいたいという。これは、米国に対抗しうる日本の産業がSONYやHONDAといったメーカーであった高度成長期の思考回路を引きずったセンチメンタリズムである。
 下町の工場だって、ロケット部品から人工心臓部品まで次々変化し続けているのである。大企業であれば、メーカーがサービス業者に変容することだって大いにありだろう。

 日本で随一の経済メディアとしての誇りがあるなら、一般民間人が往年の野球チームを懐かしむようなセンチメンタルな記事は書いてほしくない。


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by miltlumi | 2015-12-09 14:41 | リーダーシップ論 | Comments(0)

日経新聞にモノ申す

 今朝の日経朝刊に「SONYなきソニー復活」という記事が出ていた。業績は回復したものの、自他ともに認めていた当社の「主役」である「SONYという世界に誇るブランド」が不在だ、というのである。
 普段ビジネスに関することはここに書かないようにしているが、さすがにこの記事を読んだら書かずにおられなくなった。メディアというものは、かくも時代錯誤だっただろうか。

 記者がいつどこで、以前のトップが「当社の資産は…技術ではなくブランド」と語るのを聞いたのか、本当に文字通りそう言ったのかどうか、真偽のほどは知らないが、ソニーにとっての「ブランド」の概念が「技術」と切っても切り離せない表裏一体であることなど、常識ある日本人の常識である。「SONY」が「世界の消費者を惹きつけてやまない」のは、それが高い技術力や斬新な商品提案力の象徴だったからだ。
 TVやPC等いわゆるB2Cの商品が、デジタル技術によって本質的な差異化が難しくなって以降、技術会社としてデバイス(部品)事業に傾注していくのは必然である。たまさかそうした部品が一般消費者の目に触れないからといって、この稼ぎ頭の事業がSONYブランドの価値向上に大きなインパクトがないというのは浅はかな見方である。

 同じく稼ぎ頭の金融ビジネスは、SONYブランドのおかげで消費者に一定の安心感を与えるが国内だけだからダメだ(とは明記していないが)という論調も、「ソニーブランド」の別の意味をわかっていないとしか思えない。
 先日、たまたまソニー不動産の社長と話す機会があった。彼曰く、「日本における旧来の商慣習に囚われずグローバルでイノベーティブなビジネスモデルを実現することで、消費者に対して新しい価値を提供するこの会社は、まさにソニースピリットそのものです」。ちなみに彼はパナソニック(家電のソニーの宿敵!)からソニーに転職してきた人間である。
 「イノベーション」と言う言葉が「技術革新」を意味する、という見方はもはや誰もしないと思う。コロンビア大学のとあるMBAコースでは、「Think and act differently in a more useful way」と定義している。SONYブランドがイノベーティブの代名詞なら、ソニー不動産は、まさにこのブランドを冠する資格があるのではないか。それでも多くの人が、電機メーカーのソニーが不動産業を始めるのは違和感がある、と言うだろうが。

 だが、そうやってソニーの稼ぎ頭が家電(というかB2C商品)でなくなってしまったことを嘆くこと自体も、既に時代錯誤ではないか。世の中のスピードがどんどん加速していく中で、同じ商品群に固着してずっと成長し続ける(利益を増やし続ける)ことなど、不可能である。
 歴史ある米国のウェスティングハウスが「本業」の電機事業を売却してCBSという放送局を買収したのは、もう20年近く前の1997年。GEが常に成長を続ける為にセクターを越えて次々と事業ポートフォリオを入れ替えるのは有名な話である。Going concernを前提とする株式会社にとって、こうして常に変わり続けることは必然なのだ。

 日経新聞が、ある紙面では「企業は変化し続けなければいけない」と言いながら、こちらの記事ではソニーにずっとTVやオーディオや電話機を作り続けてもらいたいという。これは、米国に対抗しうる日本の産業がSONYやHONDAといったメーカーであった高度成長期の思考回路を引きずったセンチメンタリズムである。
 下町の工場だって、ロケット部品から人工心臓部品まで次々変化し続けているのである。大企業であれば、メーカーがサービス業者に変容することだって大いにありだろう。

 日本で随一の経済メディアとしての誇りがあるなら、一般民間人が往年の野球チームを懐かしむようなセンチメンタルな記事は書いてほしくない。


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by miltlumi | 2015-12-09 14:41 | リーダーシップ論 | Comments(0)

今さらのアナ雪 (上)

 思いっきり遅ればせながら「アナと雪の女王」を観た。あの有名な歌のシーンだけはTVで見たことがあったけれど、その前後の脈絡を初めて知って、愕然とした。あれ、全然歓迎すべき場面じゃないじゃん。
 大ヒットした歌とともに漏れ聞いていたのは、この映画は旧弊からの「女性の解放」を示唆していて、まだまだ男性中心の現代日本社会で鬱屈している女性の深層心理に訴えかけ、自らを解き放ったエルサの快哉の歌声に観客が呼応している、という説である。もしかしたら私の聞き違い、誤解が混じっているかもしれないが、とにかくそういう話だと思っていた。

 でも実際には、あの場面は、ざっくり良いか悪いかと言えば、「悪い」方ではないのか。だって、エルサが激情に任せて秘めたパワーを全開させた結果、国じゅうを凍える冬に陥れたってことでしょう。
 それまで長い間、生まれ持ったパワーを使うことが禁忌とされ、広い世界はおろか血を分けた妹からも遮断され、長い間自分自身を抑圧せざるを得なかったエルサに対して、同情の念を抱かないわけではない。とはいえやはり「女王」という公の立場としては、国民の幸福を第一に考えるべき。妹の結婚に反対するという私情に囚われて全てを氷と化し、挙句の果てに一人ノースマウンテンに籠もってしまうのは、いかがなものか。
 天岩戸に籠もった天照大神と一見似ているが、こちらは素戔嗚尊の暴挙がこの世の安寧を乱すことに腹を立てた、公序良俗を希求するがゆえの引き籠りなわけで、エルサの私情とはちょっとちがう。

 ふと思った。もしかすると、この映画の裏テーマは、良くも悪くも男性が築き上げた現代ビジネス社会のルールに無知な女性が、それを一つ一つ学んでいく過程なのではないか。そう考えれば、エルサはもちろんアナの行動は具体的な教訓を暗示していると、合点がいく。

 まずはエルサについて。
 教訓その1。持てるパワーは制御すること。
 エルサは、戴冠式で「抑えて抑えて」と思っていたのに、結局パワーを制御することができなかった。真面目な女性は、パワー全開、力の限り仕事をしてしまいがちである。その結果、周りがついてこられずに「暴走」と見られたり、ぶっちぎりの著しい成果を上げて男性陣の嫉妬を買ったり、何よりも自分自身が疲弊してしまう。
 手練手管に長けた男性は、いつもはパワー7割程度、ここぞというときに120%くらいにアクセルを吹かす。「パワー制御」はビジネスの世界では必須のスキルである。

 教訓その2。感情で動かないこと(エルサ)。
 これはもう言うまでもない。ビジネスに私情を挟むのはご法度である。
余談だが、うちの母は習近平氏が嫌いだ。「にこりともしない不気味な表情を見ると胸が悪くなる」といつも言っているが、オバマ大統領との会談ではちょっとだけ笑みを浮かべた。口角をわずかに上げ下げすることさえ、彼にとっては外交交渉術なのである。
 世間知らずの母はさておき、ビジネスウーマンにとって感情のコントロールは大きな課題だ。
                           …(下)に続く

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by miltlumi | 2015-11-01 22:00 | リーダーシップ論 | Comments(0)

花いちもんめ

 女性ビジネスリーダーを育成するプログラムにご縁があり、受講者の発表会を傍聴した。ある人が発表の途中、感極まって涙ぐむ場面があった。せっかく上司から機会を与えられたのに、その意図を読み切れずしかるべき行動をとらないでいるうち、別の人に仕事をさらわれて初めて、自分がやるべきだったことに気づいた、というのである。
 そのときの悔しさを思い出してつい流れてしまった涙を必死にこらえながら発表を続ける姿に、掛け値なしに感動してしまった。他人に仕事を奪われた悔しさではなく、上司の期待に沿えなかった自分の至らなさに対する悔しさが、じんじんと伝わってくる。
 その経験をきっかけにして、リーダーとしてどうあるべきかに気づいてマインドセットを変え、具体的に何をすべきかが明確になり、スキルもついて成果に結びつくようになった、という。

 負けて悔しい花いちもんめ。
ふと、こんな歌を思い出した。人は、悔しい思いをして初めて成長する。負けたら、今度こそ勝とう、と奮い立って、お釜かぶってでも、お布団かぶっても、再び挑戦する姿勢が大切。
 ビジネス界で成功者と言われる人たちの多くは、たいがい人生の早い時期に、歯噛みして悔しがる体験をしているように思える。悔しい、頭に来た、という激しい感情が起爆剤となることは、今更言うまでもない。

 そういう私は、振り返ってみると、夜も寝られないくらい悔しい思いをした覚えがない。悔しい思いをしないよう、慎重に「負ける機会」を避けてきた気さえする。
 今でも鮮明に憶えているのは、小学2年生の時に彫刻刀でケガをしたときのこと。3つ年上の兄が器用に使っているのを真似てみたくなり、こっそり手にしたところ、左手の親指と人差し指の間をざっくり切ってしまった。そのとき、悔しい、ちゃんと使えるようになりたい、と再度挑戦する代わりに、あっさり断念してしまった。
 あの頃、外で木に登ったり物置の屋根から飛び降りたり生傷の絶えなかった兄に対して、うちの中でお人形さん遊びばかりしていた私を、母はいつも「あなたはうちで大人しくしてて、よい子ね」と褒めてくれた。
 彫刻刀事件は、危ないことに手を出さずに大人しくするのが「よい子」だという、今思えば間違った認識を決定的に私に刷り込んだ。

 この歳になればもう自分の性格を母のせいにするわけにはいかないが、未だに私はリスクをとる行動が苦手だ。
 鬼がいるとかお釜がないとかとか言って、負けそうなことには最初から挑戦しない。だから、「負けて(出来なくて)悔しい」思いはしない。
 悔しい気持ちに免疫がないから、余計にリスクをとるのが恐くて、背伸びをしなくなる。

 子供を持つ親のみなさんには声を大にして言いたい。お子様には、何度だって「花いちもんめ」をやらせてあげてください。新しい物事に「ちょっとおいで」と呼ばれた時、「危ない」と留めるのではなく、「お釜なくても行って来い!」と背中を押してあげてください。痛い思い、悔しい思いをたくさん味わって免疫を作って、今度こそ、と発奮する機会を次々に与えてあげてください。
 たぶん、子供の頃に体験した感情は大人が感じるよりもずっと強烈で、大人になってから大きな意味を持つと思うから。

<追記>
ブログアップ後、関西ご出身の方から「歌詞がちがうので通じません」とのコメントをいただきました。
ご参考までに私の出身地(神奈川県西部)で歌われていた歌詞を以下に記しておきます。
 ***
 となりのおばさん ちょっとおいで
  鬼がいるから行かれない
 お釜かぶってちょっとおいで
  お釜ないから行かれない
 お布団かぶってちょっとおいで
  お布団ないから行かれない
 あの子が欲しい
  あの子じゃわからん
 この子が欲しい
  この子じゃわからん
 相談しよう
  そうしよう
(相談→じゃんけん→移動)
 勝って嬉しい花いちもんめ
  負けて悔しい花いちもんめ
(初めに戻る)



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by miltlumi | 2015-07-04 11:47 | リーダーシップ論 | Comments(2)