カテゴリ:父の記憶( 13 )

赤いトースター

 ここしばらく、オーブントースターを買い替えよう買い替えようと思いながら、決断できずにいる。35年(!)も使っているせいで、右より左の電熱が弱くなり、途中でパンをひっくり返さねばならない。さっさと楽天で注文すればいいのだが。
 バルミューダに大枚はたくことに二の足を踏んでいるわけではない。最初からあれほどの機能は求めていない。それより大切なのは、コンパクトさ(今のスペースにぴったり納まること)と色(キッチンのテーマカラーは赤)。
 この条件にあてはまる商品、実はないことはない。「今ならポイント6倍!」という謳い文句もあれば、つい注文ボタンを押しそうになるのだが、最後の最後に押し留まる。
 
 なぜか。答えは明らか。今のトースターに愛着があるから。焼きムラこそあれ、ほんの3秒余計に手間をかければ済むことだし、半年に1度は磨いてピカピカだ。
 私と一緒にトロントに赴任したし、それから新婚の借り上げ住宅のキッチンにも置かれ、新築したマイホームでも活躍し、そしてシングルアゲインのこのマンションに共にやってきた。大切な戦友。
 さらに元を辿れば、このトースターは、父が買ったものなのだ。

 35年前、父はサラリーマン人生最初で最後の単身赴任をした。神奈川県の西端の工場から港区にある本社に異動し、桜新町の独身寮に住むことになったのだ。
 昔から朝食はシンプルにコーヒーとトーストだったから、父はさっさとトースターを買い込んだ。コーヒーメーカーは誰かからもらったらしい。
 さすがに夕飯は、寮のまかないを利用した。「定時に食堂で食うやつはほとんどいないんだ」という父の言葉に、母は眉を曇らせた。その横で私は、だだっ広い食堂とトレイに乗ったプラスチック食器とぽつねんとした父を想像し、胸がちくりと痛んだ。

 そもそもあの単身赴任は、父がトップを務める事業部が会社の戦略変更で廃部となり、とりあえず開発部門に身を寄せることになったせいだった。
 折しも私が大学に入学したその年の夏、父は「勝負の年や」と言いながら事業計画を練り直していた。10月、何度目かの経営会議で結論が出た。そういう経緯の意味が分かるくらいには、私も「社会」というものを理解し始めていた。

 今、父が遺した「回想録」のページと、自分のダイアリーを見比べてみる。11月、2週間にわたる秘密裏の事業撤収計画会議で基本方針を固め、20日に父が部下たちに説明を行って配転先希望を聞くことを約している。
 まさにその翌日が、大学の学園祭だった。父と母が揃って、私が主役を演じるアガサ・クリスティの演劇を見に来てくれた。父が私の学校行事に足を向けたのは、小学2年の学芸会で「みにくいアヒルの子」を演じて以来ではなかったかと思う。
 余談だが、独身寮に持参したコーヒーメーカーが部下たちからのお餞別だったことを、回想録を読んで初めて知った。
 ついでに数えたら、それをもらったときの父は、今の自分と全く同じ年齢。

 結局、単身赴任は1年余りで終止符を打ち、父は古巣の工場の近くにあるR&Dセンターに戻った。それから定年まで、自分の知識と経験を活かせる技術標準化業務に携わり、世界中を出張しまくって結構楽しげに過ごしていた。私と赤いトースターのいるトロントにも、一度出張ついでに訪ねてきた。

 こうやって、トースターは次々思い出をポップアップさせる。やっぱり、壊れてどうしようもなくなるまで、買い替えることはできそうにない。


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by miltlumi | 2017-02-20 12:22 | 父の記憶 | Comments(0)

新聞の切り抜き

 普段スマホを持ち歩かない(データ専用のは最近ようやく購入したが、外出先でどうしてもメールチェックが必要なときかPCのテザリング用で、毎日鞄に入っているわけではない)私は、いまだに電車の中で新聞を縦四つ折りにしてちまちまと読む。サラリーマンでぎゅうぎゅう詰めの通勤電車に乗ることはめったにないので、さほど近所迷惑にはなっていないと思うが、ばさばさと頁をめくっていると、ちょっと時代錯誤な感じで肩身が狭い。
 さらに前近代的なことに、気になる記事があると、ついその場でびりびりと破いてしまう。あとで切り取ろうと思っていても、読み終わって駅に着いたときに反射的にゴミ箱にポイと捨ててしまうから、気づいたその場でやらねばならないのだ。

 クリアホルダーに差し込んだ(外出の際はたいがいクリアホルダーが鞄に入っている)ぎざぎざの切れ端は、うちに持ち帰ったらきちんとハサミで整えて日付を書く。書かれた内容にインスパイアされてブログを書いたり、取り上げられていた本を図書館で予約したり、そういう具体的な行動をすぐに起こせばいいのだが、なかなかそうはならない。
 記事の内容に対して一言モノ申したい気持ちだけは湧き上がるが、どうもうまく言葉にならない。切り抜いた紙片よりもささやかな、ほんのかすかな思考の切れ端が脳裡をよぎるだけで、はっきりした像を結んでくれない。そういう記事が知らぬ間に増えて、引き出しの中でがさがさと貯まっていく。

 父も、そうやってたくさんの新聞の切り抜きを貯めていた。技術者として半導体やリチウム電池に興味があったのはわかるが、オバマ氏とマケイン氏の大統領選(当時)や「SNSで英語学習」、「麹パワー」等々、種々雑多。セブンの業績好調の理由の「タスポ効果」には線が引かれて「?」とある。
きちんとハサミで切り取って、日付は赤いボールペンで記されている。こういうところは本当に親子似ている。
 緊急入院する3日前の切り抜き記事が「人生のエンディング⑫孤独死」というのは、ちょっと出来過ぎな気がする。父はハサミを動かしながら、まさかそれが最期の切り抜きになろうとは夢にも思わなかっただろう。
 だから、切り抜きの束を7年前の遺品整理の際に見つけたときは、どさっと捨ててしまうことができなかった。かといって全て残すには多すぎたから、最期の1ヶ月分くらいだけ、なんとなく自分のマンションに持ち帰ってきてしまった。
 そしてそのまま、今日に至っている。今、見返してみて、このままとっておくかどうか、少し迷う。

 私が切り抜いた新聞記事は、しばらく引き出しでがさごそしたあと、最終的にはどこかしらにファイリングされる。当然ながら増えて行く一方である。
 電子版にしてEvernoteと連動させれば、こんな原始的な処理をしなくて済むことはわかっているが、スマホさえ使いこなせない身として、そこまでのデジタル化にはとても踏み切れない。いずれにしても、父と違って私の場合、自分自身で読み返さない限り、この紙の束はこの先永遠に誰の目にも触れることはない。

 余談だが、同世代との間で話題になった日経記事のことを、後日8歳年下の男性に話そうとしたら、「日経なんて読んでるのは年寄りだけですよ」とばっさりやられた。


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by miltlumi | 2016-10-03 18:20 | 父の記憶 | Comments(0)

昆布の佃煮

 先日、癌をうまく克服した方の話を聞いた。とにかくできるだけ最新の情報を確かな筋から複数入手して判断することが肝要だという。精密な診断を可能にする最先端の検査装置や部位に応じたきめ細かな治療法は、驚くような進化を遂げているらしい。あと10年もすれば癌は完治できるとか実はもう開発済であるとか、癌にまつわる様々な情報は引きを切らないのもうなづける。
 さほどに人間が躍起になって研究を重ねているせいで、本当に特効薬が出来るかどうかは別にしても、少なくともその症状の経過は相当な正確さを以て予測でき、その都度の対応もほぼ決まっている。
 私の父も、最後の入院ではぴったり教科書に書かれたような経過をたどった。

 教科書曰く、末期がんはもう「治療」はせず、痛みのコントロールが大切である。痛み止めの薬をだんだん強くしていく。あるところまで行ったら、ついにモルヒネになる。強い薬で相応の副作用もあるので、服用に先だってちゃんと家族の了解をとる。それも最初は点滴、それでも効かなくなったら、モルヒネパッチ。
 また、旅立ちが近づくとだんだん食欲が落ちるとも書かれている。人間の身体は、その日に向けて体力が落ちるよう、ちゃんと食欲をコントロールしているというのだ。だから、そうなったら無理に食べさせないほうがいい。水分も無理に取らせると浮腫になるだけだ。

 入院した当初は、痛み止め(まだモルヒネではない)のせいでうつらうつらすることもあったが、まだちゃんと自分でお箸を持って食事をしていた。これなら大丈夫だ、とひそかに胸をなでおろしていた。
 1週間後、ベッドに横たわっている父のパジャマがはだけていた。すっかり浮き出た鎖骨の下あたりに、黒っぽい四角いものが貼ってある。え、もうモルヒネパッチ? そんな説明は受けていない。何を勝手に…と思わず怒りが込み上げる。やってきた看護師さんにわざとらしく質問する。
  「あの、胸のところの黒いものは何ですか?」
 知らばっくれかどうか、看護師さんは即答せずに首を伸ばして覗き込む。
  「これは…」
 言いよどんで、彼女は自信なさげにつぶやいた。
  「こんぶ、じゃないですじゃ?」

 こ、こんぶ…? 看護師さんを真似て胸元に顔を近づけると、それはてらてらと黒光りする「ふじっ子煮 椎茸こんぶ」の「昆布」…。父の好物である。母からの差し入れを食事のときに食べようとして箸からするりと落としたのだろう。
 モルヒネパッチじゃない。お父さんには好物を食べる元気がある。安堵と喜びで、笑いが止まらなかった。看護師さんはきょとんとしていた。

 それからちょうど1ヶ月して、正真正銘のモルヒネパッチが貼られた。時を同じくして、栄養剤の点滴の針を引き抜きたがるようになり、先生もその意思を尊重するように点滴を中止した。「それじゃあ飢え死にじゃない」という母の大抗議で一旦は点滴が再開されたけれど、それがよかったのかどうかはわからない。
 その1週間後。2年後の生存確率は50%、と言われてから1年と8ヶ月で、父は旅立っていった。
 今年もまた、命日の12月30日が近づいてきている。


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by miltlumi | 2015-12-13 09:54 | 父の記憶 | Comments(2)

鶴のふもと

 父が亡くなってもう6年半も経つのに、ゆっくりとお墓参りをしたことがない。
 いつも一緒に来る母は、最初の住人である父の名前の横に自分の名前が赤く掘りこまれている墓石の回りはもちろん、本家その他全部で5か所のお墓の草むしりを手早くきっちりと済ませることばかりに気を取られて、お墓の前で長い間手を合わせてぶつぶつと独り言を言うなんてことは決してありえない。

 そもそも赤字ローカル線の最寄り駅は、お墓まで歩くには遠すぎる上に待合のタクシーなど1台もいない小さな駅だから、一つ手前のやや大きい駅で降りてタクシーを拾う。お墓は、あたりに際立った目印のない、どこで停めてもらえばいいか毎回あたふたしてしまうような国道沿いの田んぼの一画である。乗り付けたはいいが、帰る段になって道端で親指を立てればすいと「空車」が寄ってくる、ということは200%ありえない。
 墓地の真ん中の空き地でUターンをする運転手さんに「30分後にまた来てください」と頼まないと、昔祖母がキツネに騙されたという人気のない道をてくてく歩くはめに陥る。必然的に、お墓参りはきっかり30分以内に完了させねばならない。

 そこら一体の地主だった数代前の惣領が、地所の田んぼを埋め立てて好き勝手に作ってしまったのであろう。鶴首山と呼ばれる小高い山を揖保川越しに東に望む場所である。その山は、文字通り鶴が首を真っ直ぐ前に投げ出して寝そべっているような恰好(実際には、鶴がそんな犬みたいな恰好で眠るはずはないのだが)をしている。標高250mほどの頂上をいただく、こんもりと盛り上がった身体の部分からなだらかに稜線が細く低くなり、そこからまた頭の大きさ分だけふっくらと盛り上がって、あとは道路に向かってふっと落ち込む。
 祖父母の家は、その墓地から南に少し歩いたところにある。父は、京都に下宿するまで勉強部屋として使っていた西の間からいつも鶴首山を見ていた、と言っていた。あれはたぶん父の記憶違いだ。西の間から山を見ようにも、母屋や納屋の屋根が邪魔になるはずである。つるべ落としの井戸と五右衛門風呂のある離れの脇を抜けて南側に広がる田んぼに出て、畦道を真っ直ぐ南に向かって河原までいかないと、山の全貌は視界に入らない。
 でもきっと、父はあの鶴首山が好きだったのだ。

 斉藤茂吉は「灰のなかに母をひろへり」と詠んで、無機物になったそのかけらひとつひとつに母を感じた。私はどうも親不孝なのか、父の骨に「父」を感じることがない。第一関西では、からりと燃え尽きたお骨のすべてを丁寧に骨壺に納めることをせず、喉仏様と頭蓋骨、手足の一部だけを納めた小さな骨壺を墓石の下に安置し、残った骨はお墓の近くの空き地にばら撒くのである。「骨」に対する意識が関東とちがうのだ。
 だから、お墓参りと言ってもあそこに父が眠っているとはとても思えない。むしろ、出掛ける前に寝室の書棚に飾ってある父の写真に向かって、「じゃあちょっと行ってくるね」と声をかけたくらいである。

 父の骨(の一部)が納まっているお墓からは、何一つ遮るものなく鶴首山が見晴るかせる。菊の花に彩られ、お線香の煙が白く立ち昇る墓石越しに山を望むときだけ、ここに父が機嫌よく居座っているように思える。
 こんな里山育ちの父は、海も好きだった。後年、もっと都会に住みたい母の反対を押し切って、マイホームは海の近くに建てた。鶴がつく名前の岬の麓にあった。


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by miltlumi | 2015-06-06 20:04 | 父の記憶 | Comments(0)

娘が生まれた年の特許

 高校時代の友だちからFacebookでメッセージをもらった。私がずっと昔にブログに書いた、父が開発した技術のことに興味を引かれた。部下まで使って調べてみた、その結果をFacebookにもアップした、という。

 読んだとき、胸がきゅんとしめつけられた。涙が出るほど嬉しかった。友だちと言っても、高校の頃はほとんど言葉を交わしたこともない。Facebookを通じて「友達」になり、お互いの共通の友人がいるね、というメッセージをやりとりした程度の間柄である。それなのに、丁寧に私のブログを読んでくれて、私の父の仕事に注目してくれた。
 その技術で特許をとったのは知っていたが、取得年が私が生まれた年だったことを、初めて知った。そんな昔のことを、同じ領域の研究をしていた、というだけで、わざわざ調べて、もう一度陽の目を当ててくれた。ありがたい。Facebookのページを印刷して、父の写真の前に供えようかと思った。遺品整理のときにどさどさと捨ててしまった黄ばんだデータ資料やプレパラートみたいな形をした色とりどりのサンプルを、ちゃんととっておけばよかった。彼に見てもらったら、何かしらの参考になったかもしれない、とまで思ってしまった。

 こんなに嬉しかったのは、父を知らない人が、父の遺したものに注意を向けてくれたおかげで、父が束の間生き返ったように思えたからだ。
 人は二度死ぬ。一度はその人が亡くなったとき、二度目はその人を知っている人が全員亡くなったとき、と言われる。有名人を除けば、その人の知り合いというのは、家族親族、友人知人、大した数ではないし、多かれ少なかれ同世代プラスマイナスアルファ、みたいに年代も限られる。
 一方、その人が遺した「もの」は、もう少し寿命が長い。絵とか歌とか著作物とか。その人を直接知らなくても、その人が創った作品を通してその人を思う、という形で、人々は見知らぬ人を記憶に留める。そうやって記憶された人は、その分二回目の死までの寿命が延びる。
 父は、根っからの仕事人間だった。家族にとっては「豚に真珠」だというのに、訳の分からない技術や開発の話を夕飯の席で延々披露しては、妻や娘に煙たがられた。彼が精魂込めて創り出した(しかし事業化には至らず世間の陽の目を見ることはなかった)技術を、同業他社である娘の高校時代の友だちが、没後5年近くも経ってからちょっとだけ掘り返してくれた。「草葉の陰で父もさぞかし喜んでいることと思います」という常套句を、心を込めて奉げたくなる。確実に、父の寿命は延びたと思う。

 長寿など、望んでいるわけでは決してない。けれど、何かしら自分自身が創った「もの」を遺したい、という気持ちは年を追うごとに少しずつ募ってきている。出来れば、自分が生きた証、というものを。同じことを、つい最近会った同い年の男性も言っていた。そういう年齢になりつつあるということか。
 死後も自分の寿命を延ばす「もの」を創った父のことが、ちょっと羨ましい。
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by miltlumi | 2013-10-09 11:03 | 父の記憶 | Comments(0)

父の記憶 -私をスキーに連れてって

 これは、母から聞いた話である。
 文武両道をモットーとする私の高校は、高校1年の1学期にクロール・平泳ぎ・背泳ぎ全て25m泳げないと、夏休みは泳げるまで補講を受けさせられるスパルタ式であった。運動神経ゼロの私の16歳の夏は、従ってプールの思い出しかない。
 冬のスキーは、幸い雪国ではなかったので、希望者のみ3泊4日の集中合宿。運動神経はもちろん経験もゼロなのに、私は「友達と雪国に旅行」ということだけに惹かれて、ぜひ参加したいと親にねだった。
 ところがこの合宿は希望者が多く、なんと「先着順」。週末の朝9時から体育館で受付。確実に定員内に入るには午前6時とか5時から並ばないといけないという噂に、わが9組は騒然となった。スキー合宿に「絶対」行きたいクラスメート4人が出した結論は、学校に最も近いAさんの家に泊まり込み、始発電車に乗って1番乗りを目指す、というもの。朝晩はもう冷え込みが本格化する11月下旬くらいだっただろうか、私たち4人は結局Aさん宅で徹夜し、その冬最初のダッフルコートを着こんで勇んで学校に向かい、無事合宿チケットを手にしたのだった。

 さて肝心の父の記憶。運動音痴の娘の珍しいおねだりに対し、うら若き女の子4人が、人気のない学校に向かうなんて…、と心配した母が、父に「そんな早朝に、大丈夫かしら」と相談したらしい。父は、しばらくじっと考え込んだ挙句、おもむろに口を開いて一言。
 「オーバーを着ていけばいい
 あのお、心配すべきは朝の冷え込みではなく、女の子が暗闇で襲われないかということなんですけど。逐一説明する気力も失せた、脱力する母の姿が目に見えるようだ。

 事程左様に、父は「娘を持つ父」としての自覚が欠落していた(と、少なくとも母はいつも嘆いていた)。たしかに、門限とか旅行とかの心配やお小言を頂戴するのは決まって母からで、父から何か言われた記憶は全くない。
 結婚のときも離婚のときも、父は賛成とも反対とも言わず、コメントらしいコメントさえ口にしなかった。放任主義だったのか、単に興味がなかったのか、あるいはそれだけ娘を信頼していたのか。

 人生を左右するような私の決断について、彼がコメントめいた発言をしたのは、ただ2回きりだ。ひとつは、新卒で技術会社に就職が決まったとき、「あそこは、いい会社や」と一言。もうひとつは、8年前のお正月、その会社を辞めて金融会社に転職すると告げたとき。このときも、スキーのときのようにしばし黙考したあと、「まあ、外資系でないならいい」と。リーマンショックが起こるずっと前だったが、外資系金融機関の、実績が出なければクビ、というドライな企業文化を、父は心配したのだろう。
 その金融会社さえ辞めて、今は気楽な自由業である。父の予言どおり、いい意味で日本的だった金融会社に、いまだに私はパートタイムでお世話になっている。
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by miltlumi | 2013-01-11 21:20 | 父の記憶 | Comments(2)

父の記憶-破戒

 父は、本が好きだった。男性によくありがちな、シリーズものの本をずらーっと本棚に並べて悦に入る、というタイプで、ドストエフスキー全集、バルザック全集、夏目漱石全集、谷崎潤一郎全集、チボー家の人々(これは全集ではないが5巻あった)など取り揃えていた。それらの頁はめくられた跡がなく、実際に読むのは、もっぱらハヤカワミステリ(若い頃はミステリ作家になりたかったらしい)。
 そして、小学生の子供たちには「少年少女新世界文学全集」をあてがわれた。「東海道中膝栗毛」から「ギリシャ神話」「トムソーヤの冒険」などが詰め込まれた30巻ほどの全集の背表紙に、兄と私は「読んだ」印をつけて競い合ったものだ。
 
 コドモ全集から卒業した、中学2年くらいだったと思う。珍しく父が「今、何の本を読んでいる?」と聞いてきた。正直言って、あの頃は父と親しく日常会話をした記憶がない。記憶がない、というよりも、実際にあまり口をきかなかったのだ。よくある話で、あの年代の女の子にとって父は鬱陶しい存在以外の何者でもない。
 「島崎藤村の『破戒』だよ。」私はそっけなく答えた。「それはどんな内容か?」さらに父は聞いてきた。父との会話をとっとと切り上げたかったのだろう、簡潔に要約してちゃちゃっと答えた。
 それに対して、普段はほとんど子供に愛想を言わない父が「そうか。よくわかった。おまえ、頭がいいな。」と感心してくれた。それから後しばらく、父は親戚に会うたびに「こいつは頭がよくて…」とこの逸話を披露していた。

 父に褒められた光景を明確に憶えているのは、後にも先にもこのときだけである。高校や大学に合格したときも、もちろん父は喜んでくれたはずなのだが、「褒められて嬉しかった」という鮮烈な記憶は、なぜかこの「破戒」のときが一番なのだ。
 そのせいかどうか、私は学生時代から就職した後も、文章を要約することが得意である。大学受験では、日本史の「XXXの乱の意義を200字以内で答えよ」といった問題に199文字まできっちり書いたし、大学の講義ノートは、試験前になると見知らぬ学生にまでコピーのコピーが出回った。仕事では、気づくといつも会議の議事録係だった。

 作家志望だった父は、晩年「私の回想録」という最初で最後の本をしたためた。簡易製本機まで買って自分で印刷した本は、家族と彼の姉妹たちにだけ配られた。かなりの部分は自分の生い立ちから仕事の話、退職後の旅行三昧の思い出で占められている。幼い子供が可愛い、みたいなアットホームな話はとても少ない。
 つまんないなあ、と飛ばし読みしていたら、「娘が中学の時、何の本か忘れたが、どのような本なのかと聞いたら、即座に簡潔、明瞭に応えたときには、こいつは頭がいいと思った」という下りに出くわした。
 父と娘は、同じ思い出を、同じように共有していたのだ。子供を褒めるのは大切だが、一生に1回でも、十分な場合もある。
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by miltlumi | 2012-04-12 23:28 | 父の記憶 | Comments(0)

父の記憶-西伊豆の12月

 私が幼稚園に入る前から、父の会社の夏休みに2泊3日で東伊豆の海水浴場に旅行するのが我が家の年中行事だった。小学校3年の時、西伊豆の土肥に新しくできた小さなホテルのことを父が知り合いから聞き、沼津から船に乗るという珍しい体験をした。

 その後また東伊豆に戻ったのだが、小学6年生は再び土肥のほうだった。海の見える部屋に落ち着いた私たちに挨拶にきたホテルのオーナーに対して、父は「娘が『たまには○○に行ってあげないと可哀そうよ』というので今年はまた来ました。」と返していた。土肥行きを自分が主張した記憶など全くないのだが、父のこの台詞だけははっきり憶えている。
 この旅行には、両親が新婚時代に可愛がっていた、近所の「千代ちゃん」が同行していた。私より10歳近く年上の千代ちゃんとその妹の小百合ちゃんは、兄や私が生まれる前、子供好きな母を慕って毎日うちに入り浸っていたらしい。彼らの両親が引っ越して往来も間遠になっていたが、久しぶりの千代ちゃんの参加は、家族が5人になったようで、2泊3日の旅行のにぎにぎしさもひときわだった。

 このときの記憶が鮮明なもう一つ理由は、ホテルが顧客サービスの一環として記念写真を撮ってくれたこと。後日送られてきた、普通より大きな判に撮影年月日が入った写真を手に、一番最初に嬌声を上げたのは兄だった。
 「お父さんとおまえ、口元がそっくり~!!」 眩しい夏の陽の下で典型的な「はい、チーズ!」表情を浮かべた5人の中で、確かに父と私は全くと言っていいほど同じ笑顔を浮かべている。そろそろ「お父さん」が煙たくなり始めた年頃の私は「えー、いやだあ。」と拗ねてみせたが、写真を変えることはできない。よく見ると、口元だけでなく、鼻のあたりまでそっくりだった。

 父は定年直前、技術の国際標準化業務に携わっていたが、私が就職したメーカーもその団体に代表を送り込んでいた。あるとき社員食堂で、個人的にほとんど話したことのないちょっと気難しげな主任技師が、つかつかと私に歩み寄ってきた。何事?と構えると、
 「あなた、もしかして○○会社の○○さんの娘さん?」 
 父が主幹する標準化グループに参画していた彼は、姓と顔つきだけで、私が父の娘であることを確信したらしい。以来、彼は私には妙ににこやかだった。

 4年前の12月、あの時以来となる西伊豆旅行にでかけた。千代ちゃんの代わりに、兄の妻と二人の子供が加わった。懐かしいホテルは横を通り過ぎただけで、もう少し規模の大きなホテルに泊まった。そこで撮った7人の記念写真の中で、お互い年をとった父と娘は、やはりお互いそっくりな口元で微笑んでいる。
 私の家族4人全員が揃っている、最後の写真である。
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by miltlumi | 2011-11-29 20:17 | 父の記憶 | Comments(0)

父の記憶―祖母の死

 父方の祖母は、6人の子供達を一人前に育てた後も、兵庫県の山奥にある藁葺の家に一人住まいをしていた。
 夏休み、帰省した私達と祖母が広々した仏間に枕を並べた夜、夕方からずっと鳴り響く雷を怖がる兄と私に、祖母は厳かな声で「心にやましいことがなければ何も怖がることはない。皆神様が見ておられる。」と告げた。昼間、小川でヒルを捕まえては石で殺し。血が出るのを観察していた(コドモってほんとに残酷…)兄と私は、余計に身震いした記憶がある。
 父が小さい頃、いたずらをするとお蔵に閉じ込められたりお尻にお灸をすえられたりしたという話もあった。信心深い、厳しい人だった。

 しかし晩年病を得て、横浜にある父の兄一家と同居するようになった。小学5年生のちょうど今頃、私は父と一緒に祖母を見舞った。藁葺の家の京間と違って、ちまちまとした団地サイズの畳の部屋に、祖母は小さく横たわっていた。義伯母によると、おばあちゃんはかき氷ばっかり食べているという。冷房が入っていたのだろうか、祖母は汗にまみれることもなく、真っ白なシーツの上でやはり白い滑らかな頬をして、細くなった左腕を布団から持ち上げて右手でさすりながら「昨日お風呂に入ったから気持ちがええ。」と笑った。
 しばらくは父も一緒に枕元にいたが、いつ場をはずしたのか、気づくと私は祖母と二人きりだった。そこで何の話をしたのか、記憶がない。もう長くない祖母の余生をどこかで感じて、神妙な気持ちで祖母の顔を見ていたのだろうか。

 帰り道、父は珍しく私にお礼を言った。「長いことおばあちゃんのそばにいてくれて、ありがとう。」何を話したわけでもなく、ましてや吸い口で水を飲ませるとかマッサージをするとか実際的なことは何一つやっていないのに。不思議に思いながら、私は黙ってうなづいた。

 祖母が亡くなったのは、それから1ケ月ほどたった初秋。久しぶりの茅葺の家で大人達が慌ただしく立ち働いていた。父は「おばあちゃんは、○○さん(義伯母)に『いい嫁と姑やったなあ』と言ってたなあ。『姑』もつくところがおばあちゃんらしい。」と言って、皆を笑わせていた。

 あれから何十年もたって、今度は私が父を見送った。私は「長いこと」父のそばにいたと言えるのだろうか。病院で父が何度お風呂に入れたのか、私は知らない。腕をさすろうにも、点滴の針を抜くといけないと手袋をかぶせられていた。
 「いい父と娘だったなあ。」という言葉はなかったけれど、亡くなるちょうど2週間前、二人きりのとき、かすれた声で「よかった。ありがとう。」と言ってくれた。そのときの笑顔が忘れられない。
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by miltlumi | 2011-08-05 10:04 | 父の記憶 | Comments(0)

父の記憶-チェスの真剣勝負

 私の記憶の中で、「父と遊んだ」実感が初めてはっきりと刻み込まれるのは、小学校4年生のときだ。もちろんそれまでも夏休みの2泊3日の海水浴や、関西の祖父母の家に帰省したときの夏の川遊び、お正月の餅つきなど、あれこれ思い出そうと思えば思いだせるものの、「父と」「二人で」というのは、ともかくこの時が初めてなのだ。
 何がきっかけだったか、我が家にチェスというものが登場した。家族総当たり戦的に色々な組み合わせでゲームをしたが、父と私という組み合わせが一番多かった。必ずしも子煩悩でなかった父は、おそらく手加減などしてくれなかった。とはいえ、ときと場合によっては、脳みそが柔軟な子供のほうが鮮やかな駒さばきで大人を打ち負かすこともある。ゲームを重ねるにつれ、勝敗は互角になることが多くなっていった。

 今もって同世代の人たちに比べて早寝な私は、その頃から「早寝早起き丈夫な体」を実践していた。蛇足だが、小学5年生の時に社会の宿題がどうしても仕上がらず、兄に手伝ってもらってようやく終わった時、時計を見て9時半だったのに呆然としたことがある。この時間は、とっくにお風呂に入って寝る用意をする時間だったのだ。
 そんな私に、ある日10時過ぎに帰宅した父が、見るからに疲れた顔をしているにも関わらず、「○○、チェスをしよう」と言ったことがある。「ええ、こんな時間から?」と思ったものの、直感的につきあってあげないといけない、と思い、「うん!」とことさら明るい声で盤に駒を並べ始めた。
 疲れている父の駒は当然動きも鈍く、これなら勝っちゃうなあ、と思いながら、手を抜くのも失礼な気がした。記憶は曖昧だが、多分その日は私が勝ったのではないかと思う。それからも父はちょくちょく、遅い時間なのに、寝巻姿の私をチェスに誘った。

 社会に出て、会社勤めのつらさや理不尽を経験し、はや20余年。当時の父の年齢をとっくに超えてしまった私は、仕事に疲れて帰ってきて、早く寝ればいいものをついPCゲームに夢中になって気づくと夜中…ということがたまにある。あの頃の父の心境がようやく想像できるようになった。そしてあの時、父の誘いを断らなかった自分の判断は、娘として非常に正しかったと、少し誇らしく思っている。

 トロントに駐在しているとき、アートショップで大理石のきれいなチェス盤を見つけ、父にプレゼントしたことがある。いつの誕生日だったか、と思っていたら、父の回想録には、それが定年退職の記念だったことがちゃんと書かれていた。結局、その盤で父と一戦交えることは一度もなかった。
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by miltlumi | 2011-04-30 18:06 | 父の記憶 | Comments(2)