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書くことの効用

 ちょっと、というよりかなり、頭にきたことがあって、相手に手紙を書いた。どんなに邪悪なやつだと思われても、さもしい性格の持ち主だと思われても、それでもこの怒りを絶対に知らしめてやりたい、というどす黒い気持ちがごんごんと湧き出るのを止めることができなかった。感情に流され過ぎず、おどろおどろしくなり過ぎず、適度な客観性と説得力を備え、かつ相手の痛いところにぶすりと突き刺さるよう、持てる日本語能力を全て振り絞って精魂込めて何度も推敲して、2枚の完璧なMicrosoft Wordファイルが出来上がった。
 出来た文章を便箋に手書きで書き写そうかとも思ったが、きっちり大きさの揃った冷徹なMS明朝のほうが、氷の怒りを伝えるには相応しいと思い直し、そのままA4用紙に印刷する。最後に添える私の名前だけを自筆にし、その後ろにご丁寧にも実印をしっかと押し付けた。我ながら、その本気度合が恐い。
 内容証明か配達記録か、あるいは甥っ子に直接デリバリーさせようか。策を練る間、印刷された紙は真新しいクリアホルダーに収納されて、出番を待つ。絶対、ゼッタイやるんだもんね。
 きりのいいところで家事にとりかかりながら、あそこに使った副詞が気になりだす。印刷物を読み返してみると、この動詞もあれに換えた方が迫力が出る。PC画面に再びファイルを呼び出して、さらに推敲を重ねる。かくして印刷及び押印は版3つまで更新される。これでようやく言いたいことは言い尽くした。まあもう少し時間を置いてみようか。

 「書く」という行為は、偉大である。さらにそれを紙媒体に具現化することは、もっと偉大である。粘性の高いマグマのように黒くどろどろしたものをコトバにして、そのコトバをカタチにして机の上に置いて2日もすると、自分のものだったはずの「気持ち」が名実ともに外在化されている。汚いものを出し切った私はすっかり浄化され、出された紙のほうはもう手で触るのも穢らわしいような、えんがちょになる
 あれほど熱かった本気はどこへやら、もう切手代を払うのも阿呆らしくなっているから、いっそ切手を貼らずに差出人住所氏名も書かずに投函しようか、と最後の手段を思いついたところで、本当に、心の底から馬鹿馬鹿しくなった。

 結局、ライターを持って流しに向かう。めらめらと、相手への恨みも私の怒りも全てを焼き尽くしてしまえ、と多少ロマンチックな気分になりかけて、結構な量で立ち昇ってくる煙に探知機が作動するのでは、と我に返る。急いで換気扇のスイッチを入れた拍子に、半分燃えた紙を落としてしまう。プラスチックの洗い桶が溶けるとまずい、と再び我に返る。咄嗟に水道の蛇口をひねると、一気に消沈した炎の後に、黒い煤と3分の1ほど燃え残った白い紙。家の庭で焚火ができた昔が懐かしい。
 夜になって、夕飯の支度をしようとキッチンに入り、排水口にへばりつく黒いカスを見たとき、あら、焼き茄子でも作ったかしら(剥いた茄子の皮とそっくりだったのだ)、と思ってしまった。怒りはすっかり過去のものだった。
 
by miltlumi | 2012-09-23 08:36 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)
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