北野武のアウトレイジみたいな凶暴な映画はもちろん、「龍馬伝」の以蔵拷問シーンさえまともに見られない繊細な私には全く信じられない事だが、スペイン名物の闘牛は、大熱狂の観衆のもと、なんと20分間で6頭の牛を殺すという。それを見た友人は、カトリック教徒は本当に血が好きなんだ、血だらけのキリスト像が飾ってあるのも、たいがいカトリック教会でしょう、と言っていた。そういえば「血の涙を流すマリア像」が騒がれるのもカトリック教会だ(そもそもプロテスタントは聖母マリアを特別視しないそうだ)。
プロテスタントはさておき、少なくとも日本では物理的な流血を国民上げて楽しんだり、仏様から血がだらだら流れるのをありがたがったりする風習はない、と思う。 血に対する、カトリック教徒と日本人の受け止め方の違い。すごくひっかかって、ずっと考えていた。そして気付いたのは、神と「自然」の位置づけの違い、だ。 キリスト教では、創造主=神が、人間や「Nature」を創った。「Nature」には山や川や牛や羊も含まれるが、最後の審判を受けられるのは人間だけ(なぜなら、「ことばは神」(新約聖書 ヨハネの福音書1:1)であるから、言葉を解しない動物は宗教の対象外)。神の被造物であり原罪を背負っている人間は、自己犠牲、つまり血を流すことにより、神の国に導かれる。磔にされたキリストはその典型。凡人はそこまで自分を傷つけられないから、より格下の動物を生贄として捧げ、祭壇の前で血を見せることが、神を喜ばす重要な儀式だったのではないか。そこから、流血=ポジティブなイベント、という心理が働くようになったのではないか。 一方日本人古来の神は、「自然」そのもの=神であり、人間はもちろん牛や狐も皆その一部である。だから神社には狐や牛や蛇が祭られているのだ。山川草木悉皆成仏とは最澄の言葉だが、彼は修験道に対する民衆の信仰の厚さを十分に意識していた。動物シャットアウトのキリスト教とは大きな違いだ。 自然の恵みへの感謝のしるしとして農作物を、あるいは動物の好物の油揚げや卵を、神に「お供え」することはあっても、「生贄」という概念はない。 そういえば、町じゅう血だらけみたいになるトマト祭り「La Tomatina」もスペインのイベント。収穫祭というけれど、あそこには新嘗祭のような「自然に対する敬意」はみじんも感じられない(第二次大戦後に始まったというトマト祭りと1400年前からある新嘗祭を比較すること自体が間違いだが)。多分、血は見たいけれど闘牛の悲惨さはちょっと…という良識あるクリスチャンが始めたイベントなんじゃないか。 だからどちらが残酷とか野蛮とか、優れているとか寛容とか言いたいわけではない。文化の違い、それだけ。ただ、我々日本人は、西欧人とは全く異なる歴史ある文化を持っている。インターネットが普及しようと、英語がビジネス公用語になろうと、この重みは一朝一夕になくなるものではない。自らの文化への健全な帰属意識なしには、異文化と対等に接することはできない。 英語教育の前に、まずやらねばならないことがあるのではないか。
by miltlumi
| 2010-08-02 21:31
| 私は私・徒然なるまま
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