赤いトースター

 ここしばらく、オーブントースターを買い替えよう買い替えようと思いながら、決断できずにいる。35年(!)も使っているせいで、右より左の電熱が弱くなり、途中でパンをひっくり返さねばならない。さっさと楽天で注文すればいいのだが。
 バルミューダに大枚はたくことに二の足を踏んでいるわけではない。最初からあれほどの機能は求めていない。それより大切なのは、コンパクトさ(今のスペースにぴったり納まること)と色(キッチンのテーマカラーは赤)。
 この条件にあてはまる商品、実はないことはない。「今ならポイント6倍!」という謳い文句もあれば、つい注文ボタンを押しそうになるのだが、最後の最後に押し留まる。
 
 なぜか。答えは明らか。今のトースターに愛着があるから。焼きムラこそあれ、ほんの3秒余計に手間をかければ済むことだし、半年に1度は磨いてピカピカだ。
 私と一緒にトロントに赴任したし、それから新婚の借り上げ住宅のキッチンにも置かれ、新築したマイホームでも活躍し、そしてシングルアゲインのこのマンションに共にやってきた。大切な戦友。
 さらに元を辿れば、このトースターは、父が買ったものなのだ。

 35年前、父はサラリーマン人生最初で最後の単身赴任をした。神奈川県の西端の工場から港区にある本社に異動し、桜新町の独身寮に住むことになったのだ。
 昔から朝食はシンプルにコーヒーとトーストだったから、父はさっさとトースターを買い込んだ。コーヒーメーカーは誰かからもらったらしい。
 さすがに夕飯は、寮のまかないを利用した。「定時に食堂で食うやつはほとんどいないんだ」という父の言葉に、母は眉を曇らせた。その横で私は、だだっ広い食堂とトレイに乗ったプラスチック食器とぽつねんとした父を想像し、胸がちくりと痛んだ。

 そもそもあの単身赴任は、父がトップを務める事業部が会社の戦略変更で廃部となり、とりあえず開発部門に身を寄せることになったせいだった。
 折しも私が大学に入学したその年の夏、父は「勝負の年や」と言いながら事業計画を練り直していた。10月、何度目かの経営会議で結論が出た。そういう経緯の意味が分かるくらいには、私も「社会」というものを理解し始めていた。

 今、父が遺した「回想録」のページと、自分のダイアリーを見比べてみる。11月、2週間にわたる秘密裏の事業撤収計画会議で基本方針を固め、20日に父が部下たちに説明を行って配転先希望を聞くことを約している。
 まさにその翌日が、大学の学園祭だった。父と母が揃って、私が主役を演じるアガサ・クリスティの演劇を見に来てくれた。父が私の学校行事に足を向けたのは、小学2年の学芸会で「みにくいアヒルの子」を演じて以来ではなかったかと思う。
 余談だが、独身寮に持参したコーヒーメーカーが部下たちからのお餞別だったことを、回想録を読んで初めて知った。
 ついでに数えたら、それをもらったときの父は、今の自分と全く同じ年齢。

 結局、単身赴任は1年余りで終止符を打ち、父は古巣の工場の近くにあるR&Dセンターに戻った。それから定年まで、自分の知識と経験を活かせる技術標準化業務に携わり、世界中を出張しまくって結構楽しげに過ごしていた。私と赤いトースターのいるトロントにも、一度出張ついでに訪ねてきた。

 こうやって、トースターは次々思い出をポップアップさせる。やっぱり、壊れてどうしようもなくなるまで、買い替えることはできそうにない。


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# by miltlumi | 2017-02-20 12:22 | 父の記憶 | Comments(0)

朝の虹

サンキャッチャーを買った。
東向きの窓から部屋に差し込む朝陽が、きっともっときらきらになる。
突然、そう思いついたのだ。
ネット注文が届いたのは雨の午後。翌朝の天気予報は、晴れ。
目覚めて、わくわくしながらリビングに足を踏み入れたら、
全然きらきらしていない。
カーテンレールをするすると行ったり来たりさせると、
ようやくプリズムの光が壁に散乱する。
意外に角度に繊細なのだ。

しかも、朝の太陽は思った以上に動きが速い。
ちょっと経つと、スワロフスキと太陽の位置がずれて虹が消えてしまう。
またするするとレールを滑らせる。
そして、太陽の光、キャッチ。その、繰り返し。
朝から夢中で、私の太陽を追いかけている。

名前も忘れてしまったある詩人が、細かい言葉は忘れてしまったが、
こんなことを書いていたっけ。

 -ほんのささやかな植物でも、鉢植えを買って庭に置く。雨が降る。
 -ああ、私のあの花に、雨が降っている、と思う。
 -鉢植えがないときは、外に雨が降っていることなど、気にも留めなかったのに。

そういえば、そういうものがもう一つあった。
昔からベランダの物干しにぶら下がっている、JFKのお土産屋さんで買った
アメリカインディアンの風鈴。
少し風が強いと、窓を閉めていても、リンリンという澄んだ音色が聞こえてくる。
ああ、私の風鈴に、風が吹いている、と思う。
もっと吹いてくれないかな、とも思う。

今朝はその風鈴がそよとも動かない穏やかな日である。
サンキャッチャー越しに外を覗いたら、
アロエの花にちょうどメジロが飛んできたところだった。

サンキャッチャーで太陽とつながり
鉢植えで雨とつながり
風鈴で風とつながり
アロエの花で鳥とつながり
からだじゅうで、私は自然とつながる
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# by miltlumi | 2017-02-14 20:18 | フォトアルバム | Comments(2)

節分の日の出来事

 節分。快晴。春の訪れ。暦の上で、新しい季節が始まる。
 「八方塞がり」だった昨年からようやく解放される、と心も軽く、出雲大社分祠でいただいた福豆の豆まきを、朝からいそいそと執り行った。歳の数だけ豆を食べているうちに出掛ける時間が迫り、急いで支度を整える。今日は朝から晩までてんでばらばらな用事が目白押し。あの会議にはこのノート、この会議にはあの資料。忘れ物しないようにしなきゃ、と思いながらも、電車の時刻を気にして家を飛び出す。

 駅への道すがら、夜の勉強会の参考図書を忘れたことに、早速気づく。あ、やっぱり。何か忘れてると思ったんだ。でもこれならたいしたことない。隣の人に見せてもらえばいいや。他力本願、である。
 地下鉄への階段を降りる前に、2番目の忘れ物に気づく。最初の会議に必要な書類を印刷し忘れた。あいたっ。これはちょっとマズい。自分で作った資料を説明する立場なのに。でも、事前に相手方にメールで送ってある。秘書さん、優しそうな人だったよね、とスマホからメールで印刷依頼。即レス。ありがたいことである。
 2度あることは3度ある。というけれど、まさかまだ他に忘れ物なかったっけ。

 やっぱりあった。次の会議、非常勤で働いている会社の従業員用セキュリティカード。あああ。これは結構マズい。総合受付に行くと、いろいろ職務尋問されて紙を書かされて厄介なのだ。ここでも頼るは秘書さん。電話をして、わざわざゲートまでお迎えに来てもらう。ホント、お手数おかけします…。

 会議が終わり、彼らは全社員総会で別の場所にある会議室へ移動、というので、私もとっとと退散する。…と、エレベーターの中で、ゲートを出るにもカードが必要なことを思い出す。げげげっ。これはかなり本格的にマズい。とりあえずゲートに行くも、1カード1タッチで1人ずつ、ピッピと出入りする中、紛れて出て行くことは不可能。テナント企業社員専用ゲートだから、警備員もいない。
 策のないまま再びエレベーターを昇る。当然ながら、オフィスに入ることもできない。カード不要の秘密の出口はないものかとうろうろするが、ドラえもんじゃない限り、そんなもんあるはずもない。

 なんの勝算もなく、みたびエレベーターへ。そこに、地獄に仏。警備員さま!! 見た目も明らかな制服姿に、聞かずもがなの問いかけをする。
 「あの、警備員の方ですか?」
 「…? はい。でも、〇〇証券の専任ですが」
 〇〇も△△もカンケーない。かくかくしかじか、出来るだけしおらしい表情を作ってお願いする。
 「つまり、出て行ければいいんですね」
 「はい。すみません。お願いします」
 人目を盗んでピピッとカードをかざした警備員さんに、ゲートの外から深々とお辞儀をしたのであった。

 「八方塞がり」をうまく乗り切るには、まわりをぐるり囲む人たちに助けを乞うしかないという。ということで昨年は色々な人に助けていただいた。最終日の節分の日、まさにその集大成とも言える「人様の情け」オンパレードであった。
 新しい季節が始まって1週間。相変わらず人の助けで生きている、今日この頃である。


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# by miltlumi | 2017-02-10 10:29 | 機嫌よく一人暮らし | Comments(0)